セサミ色々日記

雑談に変更

ブログ引越し①:夜空の星はどんな色?

以前、FC2に8年間にわたり書いてきたブログのパスワードを忘れてしまいました。今はPCで自動的にログインできるからいいのですが、もうすぐPCを買い換えるので、そうすると一切いじることができなくなってしまいます。

そこで、ブログの一部を少しずつこちらに引越しさせることにしました。アマルティア・センに関する文などは、自分自身でも思い入れがあるので、保存したくなったためです。

 

今回のブログは2012年1月25日に書いたものです。『ファクトフルネス』を論じる上で、一部参考になることがあるので、載せることにしました。

税務処理が無事終わったら、『ファクトフルネス』の続きを書きます。

 

2012年1月25日:『夜空の色はどんな色?:臨床と言葉』より

 

「わたしには他人の痛みというのがどうしても分からないんです・・・。」わたしはこういう率直な発言が好きだ。(中略)
 まず、分かる、理解するというのは、感情の一致、意見の一致をみるということではないということ。むしろ同じことに直面しても、ああこのひとはこんなふうに感じるのかというように、自他のあいだの差異を深く、そして微細に思い知らされることだということ。言いかえると、他人の想いにふれて、それを自分の理解の枠におさめようとしないということ。そのことで人は他者としての他者の存在にはじめて接することになる。(中略)
 理解するとは、合意とか合一といった到着点をめがけるものではなく、分からないままに身をさらしあう果てしのないプロセスなのではないかとおもえてくる。一致よりも不一致、伝達よりも伝達不能、それを思い知ることこそが、理解においては重要な意味をもつ、と。(中略)
 他者を理解するということのうちには、他者の想いにふれ、それを受け入れることで、自己のうちで何かが変わる、これまでとは違ったふうにじぶんを感じられるようになるという出来事が起こるということが含まれているのだとおもう。
 結局、じぶんとの関係がどうこうということを離れて、自分が言ったことが承認されるかされないかは別にして、それでもじぶんのことを分かろうと相手がじぶんに関心をもちつづけていてくれることを相手のことばやふるまいのうちに確認できたとき、ひとは「分かってもらえた」と感じるのだろう。
河合隼雄鷲田清一著『臨床とことば』2010、朝日文庫より)


 インド人の友人ファニちゃん(27歳の女の子)と、以前、星の絵の話をしていました。私が、「星は金色や銀色で描くでしょ」と言ったら、ファニちゃんが驚いた顔をして、「え、星は青色で描くんじゃないの?」と答えてきました。
 確かに、理科では、星の色は温度が高くなるにつれ、赤⇒オレンジ⇒黄色⇒白⇒青色と変化していくと習いますが、幼稚園や小学校の時は私は金色や銀色で描いてました。確か私だけでなく、周りの皆もそうだった気がするのだけど・・・(※ちょっと自信がなくなってきた)。
 というようなことをファニちゃんに伝えたら、彼女は今まで、星は青色でしか描いたことがないというのです。そして逆に「月は何色で描くの? 太陽は何色で描くの?」と聞いてきました。私が、月は黄色で、太陽は赤色かオレンジ色、たまに黄色で描く人もいる、と答えると、「あ~、それは同じだ、良かった良かった」と安心していました。
 国によって、又は、人によって、星を何色で描くのか違ってくるのかもね、面白いね、機会があったら色んな人に聞いてみたいね、と2人で話しました。

 ファニちゃんとは、年齢も20歳近く離れているし、育った国も環境も全然違うけど、一緒に話をしていると、とっても楽しくて、妙に安心するんです。なんとなく気の合うところがあるからなのだけど、それだけではない気がして、何故だろう?って考えてみました。

 多分だけど、お互いに異なる人間でなので、価値観が違っていて当然、という出発点から、コミュニケーションを取ろうとしているからじゃないかなぁ。だから、違っている点があっても、そんな風に行動するんだ、そんな風に考えるんだって、興味深く思えるし、逆に、同じような点があると、それがとっても貴重なことに思えて、うれしく思えるし。価値観を揃える必要もなく、互いの考えを尊重しつつ話ができることが、私に心に安らぎを与えてくれるんだと思います。

 ところで、話は変わりますが、センの本を読んで、アイデンティティ帰属意識について考えていたら、人はどうして大きな集団に帰属すると安心感を持つのかなぁ、との疑問がわいてきました。その時、ふと、以前読んだ鷲田清一氏の文章を思い出しました。それが、上述の文章です。

 自分のことが他人に分かってもらえない、又は、自分は他人のことが分からない、ということに、人はとても不安を覚えるのかなぁ。だから、大きな集団に帰属して、意見の一致や感情の一致を確認しあい、仲間意識を持つことで、それらの不安を覆い隠し、安心感を得ることができるのかなぁ、って思いました。

 私は、未熟な人間なので、自分のことさえよく分かりません。ましてや、他人のことも分からないし、自分が他人にどう思われているのかもよく分からないし、分からないことだらけなので、分からない、という前提の方が、不安や心配を大いに感じはするけれども、なぜか逆に落ち着いた気持ちにもなれるんです。

 人は分かりあえるものなんだ、という前提で、失望したくないのかもしれない。分かりあえるなんて不可能だ、という前提で、ほんの一瞬でも誰かと通じ合えたと思える瞬間があるのならば、もうそれで十分だって思うんです。