セサミ色々日記

雑談に変更

世界を、こんなふうに見てごらん:その1

今使っているパソコンはウィンドウズ7です。一度壊れかけたのを無理やり治したので、反応がとてもにぶくなっています。

以前のブログのIDやパスワード(※全て忘れてしまった)はこのパソコンが記憶しているので、パソコンが動くうちに、ブログの引越しを終えたい!

そのため、当分、以前のブログ引越しが続きます。

2012年4月6日

「ダニには目がない。皮膚にそなわった光の感覚を頼りに灌木の枝先によじ登り、温血動物が通りかかるのを待っている。その下で、動物の皮膚が発する酪酸のにおいがしたら、とたんに落下する。
 そのにおいはエサの信号なのだ。温かいものの上に着地したことがわかったら、ダニは触覚を頼りに毛の少ない場所に移動し、血液を吸う。
 つまりダニにとっての「世界」は、光と酪酸のにおい、そして温度感覚、触覚のみで構成されている。ダニのいるところには森があり、風が吹いたり、鳥がさえずったりしているかもしれないが、その環境のほとんどはダニにとって意味を持たない。
 世界を構築し、その世界の中で生きていくということは、そのいきものの知覚的な枠のもとに構築される環世界の中で生き、その環世界を見、それに対応しながら動くということであって、それがすなわち生きているということだ。(中略)
 人間は人間の環世界、すなわち、人間がつくり出した概念的世界に生きている。人間には、その概念的世界、つまりイリュージョンという色眼鏡を通してしか、ものが見えない。」



 人には聞こえないけれど犬や猫には聞こえる音を出す「犬笛」というものがあります。ご存知の方も多いと思います。犬や猫は、人間には聞こえない高い音を聞くことができ、ピアノの鍵盤の高音部に、更に4オクターブ付けくわえた分ほど、聞き取ることができるそうです。
 動物の種類によって、音の聞こえる範囲(可聴域)は異なり、ほ乳類だけで比較してみても、人の可聴域は12ヘルツ~2万3000ヘルツであるのに対し、犬は15ヘルツ~6万ヘルツ、ネコは45ヘルツ~6万4000ヘルツで、イルカの場合は15万ヘルツまで、コウモリの場合にはなんと40万ヘルツまで、聞き取ることができるそうです。

 生物によって見える色の範囲も異なり、人の可視光線は約380~810ナノメートル(紫色~赤色)ですが、昆虫類は紫色よりも波長の短い紫外線を見ることができ、またヘビは赤色よりも波長の長い赤外線を見ることができるそうです。ヒトには単にまっ白いお花にしか見えないのが、紫外線カメラで写してみると結構派手な模様があることもあります。同じお花を見ていても、人とチョウやミツバチでは、全然違うお花を見ていることになる。
 音や色だけでもこんなに違うのに、匂いや温度や様々な刺激を考えてみたら、同じ場所にいても感じ方は生物によって全く違ってくる。上述の日高氏の文章は、そのことをあらわしています。

 セサミの某講師が、以前、「スマホのカメラには赤外線がちゃんと写るんですよ」と突然言い出し、「やっぱ、人には見えないけれど実在しているものがたくさんあるってことが、こんなことからもわかるんですよね」と話していました。
 彼はとても賢明で有能で謙虚で、その上、発想が変わってるというか面白いというか飽きないというか、動物学者の日高氏と同じようなことをいうなぁと思いながら聞いていました。

 日本の動物行動学の開拓者であった日高敏隆氏は、動物や昆虫に関する多くの著書や翻訳書を残しています。2009年11月に肺がんのためにこの世を去ってしまいました。日高氏がこの世を去る直前まで、雑誌に連載していた文章をまとめたものが、『世界を、こんなふうに見てごらん』という本です。
 日高氏は、今となっては一般に、日本を代表する偉大な動物学者となっていますが、研究の過程においては、かなり異端視されることも多かったそうです。どうしてか。日高氏は、科学万能主義的な考え方や、理論一辺倒の考え方を疑問視し続けたからではないか、と思います。
 それについては長くなってしまうので次回に書くこととして、今回は、日高氏の「なぜ」について、引用していきます。

 日高氏は昆虫やチョウが大好きで、子どもの頃、クロアゲハを捕ろうとしたとき、クロアゲハは高い木の梢の周辺しか飛ばないことを発見したそうです。もっと低いところを飛んでくれたら捕りやすいのに、なぜ、花もないのに、高い梢を飛ぶのだろうと、ずっと疑問に思っていたそうです。

 「考えたら、こんな「なぜ」はわかってもわからなくてもいいのではないか、くだらない「なぜ」なのではないかという気もする。それをあまり問う人はいなかったわけだが、不思議に思いはじめると不思議なのだ。
 そして、その「なぜ」は、調べていったというより、考えていったのだ。
 山の中で木がいっぱいあっても、アゲハは杉や檜などの人工林を飛ぶことはない。雑木が生えているところを飛ぶ。
 そこには卵を産める柚やカラタチといった植物が生えている。
 もしかしたら彼らはミカン科の木の葉っぱに卵を産んで(そこで)成虫になるから、花畑よりも木の梢のほうを飛んでいる雌が多いのではないか。雄はそこで雌に出会うのではないか。
 というぐあいに説明がついてくる。
 仮説を立てて、実際に調べてみる。
 具体的なことがわかってくると、だんだん一般にあてはまる理屈が見えてくる。
(中略)
 東大の理学部に入って、その話をすると、「なぜ」を問うてはいけないといわれた。
 なぜいけないのですかと聞き返したら、「なぜ」を問うことはカミサマが出てくる話になってしまう。How(どのように)は聞いてはよいが、Why(なぜ)を聞いてはいけないといわれ、そのことを疑問に思った。
 何人かの先生からは、そんなふうに考えるのなら東大をやめて京大に行けといわれた。それくらい「なぜ」という言葉は問題があるとされていた。(中略)
 物理学で物が落ちる、なぜ落ちるか。万有引力があるからだ、という。なぜ万有引力があるのか、とは聞かない。
 だが少なくとも生物の場合は、「なぜ」を問わないと学問にならないのではないかと思った。かなり厳しくそう思った。が、それ以上東大の先生たちとは議論しなかった。
 当時、科学というものは、「なぜ」を問わないものだ、と世の中一般にいわれていたと思う。(中略)
 自分の思った道を粛々と行けばいい。人を説得しなくては、なんて思わない。自分がそう思っていればいい、と思う。
 目の前のなぜを、具体的に、議論するのではなく、なぜだろうと考える。ある意味では、目の前の対象は具体性があるから強い。(中略)
 科学を志す人には、なぜということしかない。おおいに「なぜ」に取り組めばいい。自分の「なぜ」を大切にあたため続ければいいと思う。」


【参考文献】
日高敏隆『世界を、こんなふうに見てごらん』集英社、2010年