セサミ色々日記

雑談に変更

制約されざる人間2:ジャズ

2012年3月2日

制約されざる人間」とは、どんな制約の下でも人間らしくある者のことである。たとえどんなに劣悪で非人間的な制約の下でも、なお人間らしくあり続ける者のことである。つまり、いかなる制約の下でも自らの人間性を否定せず、むしろ制約に対して「自ら態度を取る」人間のことなのである。(中略)
 人間は、制約に「埋没」しないかぎり制約されざる者なのであって、事実、人間をすっかり「作り上げる」ような制約などは存在しないのである。制約はなるほど人間を条件づけるものではあっても、人間の本質を構成するものではない。(中略)
 人間は、存在論的意味では、制約されていることによってのみ、制約されざる存在なのである。(中略)人間は、制約されざる存在であらざるをえないのではなく、制約されざる存在であるべきである。
(V.E.フランクル『制約されざる人間』より)


 セサミの新しいホーム・ページが、やっと、ほぼ完成しました。ふー。講師・生徒対談も面白く仕上がって、結構満足なのであります。しかし私は3月10日頃まで、個人的に、死にそうに忙しいのであります。対談の原稿書いたり、ブログ書いたりしてていいのだろうか・・・

 それはそうと、対談でジャズの話が出てきたのですが、前回紹介した『選択の科学』には、ジャズ・トランペッターのウィントン・マルサリスの言葉が出ていたのを思い出しました。この人はジャズもクラシックも演奏し、両部門で9つのグラミー賞を獲得しており、作曲もするというすんごい人です。
 『選択の科学』の著書、アイエンガー氏は、マルサリス氏と話したことを、このように書いています。

・「ジャズにも制約が必要だ。制約がなければ、だれにだって即興演奏はできるが、それはジャズじゃない。ジャズには制約がつきものだ。そうでなきゃ、ただの騒音になってしまう」。
 マルサリスによれば、即興演奏の能力は、基礎知識を土台としているのだという。そしてこの知識が、わたしたちが「選択できること、実際に選択することを制限する」のだという。「選択しなければならないとき、知識は重要な役割を果たすんだ」。
 その選択がもたらす行動は、情報に基づく直感、つまりかれの言葉で言えば「超思考」に基づいている。ジャズにおける超思考は、ただ単に「正しい」答えを決定するだけのものではない。ほかの人には同じ音の繰り返しにしか聞こえないものの中に、新しい可能性を見出し、ほんのわずかしかない「有用な組み合わせ」を構築する能力でもあるのだ。


 前述の著書の訳者あとがきには、アイエンガー氏自身の、制約に関する考えが紹介されています。

・目が見えないことで選択を制限されることについてどう思うか、というインタビューに、彼女はこう答えている。
 選択に制約を課されることで、逆に、本当に大切なことだけに目を向け、選択しやすくなる。限られた選択肢を最大限活かすために、創造性を発揮することもまた楽しいのだと。


 制約と選択の自由とは、裏表になっているものなのかなぁ。う~ん、よくわからないなぁ、どうなっているんだろう?と私は最近考えていました。
 にっちもさっちもいかないような状況の中だったら、選択も自由も創造もへったくれもないでしょ、って、私は思って生きてきました。

 10か月位前だったかなぁ、ある人が、「状況は変えられないけれど、自分がどう行動するかは変えることができる。周囲は変えられないけど、自分を変えることはできる」と言ったのを聞いて、私は、「この人は何が言いたいのだろう? 自分がどう考えようが、どう振る舞おうが、状況が変わんなきゃ意味ないじゃん。訳わかんない」と思いました。しかしなぜか、私の考え方が浅はかなような気がして、ちょっとひっかかっていました。

 それから数カ月後、以前紹介した岡田尊司氏の著書に書かれていた以下の文章を読みました。

・感謝の気持ちをもてるか否かは、思いどおりにならない他者や世界をどう受け止めるかにかかっている。言い換えれば、自分というものの有限性をどう受け止めるかにかかっている。(中略)
 感謝の気持ちをもてる人は、自分ができないこと、自分には与えられないもの、自分に不利な状況を、決して自分を否定するものとは受け取らない。そうした困難や不愉快なことさえも、こうして与えられていることには何か意味があり、それは一つの恵みなのだと考える。有限性にこそ、自分を超える力と意味を見出すのである。


 困難な不愉快なことを、恵みと思えと言われても、困るし、それって無理でしょ、って、正直私は思ってしまいました。岡田氏はなぜこんなことを書くのだろう? 本気でそう思っているの? なぜそう思えるの?

 そして数週間前、ひょんなことからある本を手に取ったことがきっかけで、私は、ほんのちょっとずつだけど、わかってきたような気がしてるんです。(つづく)

 

2012年3月2日