セサミ色々日記

雑談に変更

世界を、こんなふうに見てごらん:その3

前回のブログで算数オリンピックの予選大会のことを書いていました。今年は開けるかどうか、まだわからない状況です・・・

初めてから今年で9回目の開催になる予定です。昨年には、ジュニア数学オリンピックで銅メダルを取った生徒さんもいます!!!

でもなぜか、1回目のときが、一番どきどきどきどきしたことを覚えています。

下記の文章で日高氏が言うように、最も不安で必死だったからだと思います。ともかく必死で必死で、だからこそ、良かったのかもしれませんね。

今は、日本中がある意味必死です。この大きな荒波を乗り越えると、別の世界が広がるように思います。

 

2012年4月23日

何が科学的かということとは別に、まず、人間は論理が通れば正しいと考えるほどバカであるという、そのことを知っていることが大事だと思う。
 そこをカバーするには、自分の中に複数の視点を持つこと、ひとつのことを違った目で見られることではないかと思う。
(中略)
 神であれ、科学であれ、ひとつのことにしがみついて精神の基盤とすることは、これまでの人類が抱えてきた弱さ、幼さであり、これからはそういう人間精神の基盤をも相対化しないといけないのではないか。
 頼るものがあるほうが人間は楽だ。それにしたがい、疑問には目をつぶればいいのだから。


 生物の分類は、大きい枠組みから、『ドメイン・界・門・綱・目・科・族・種』に分けられる。人の場合だと、『真核生物・動物界・脊椎動物門・哺乳綱・サル目・ヒト科・ヒト属・H.Sapiens(ホモ・サピエンス)』となります『綱』は日常生活では『類』で用いられることが多く、哺乳綱は、哺乳類と同じことです。

 さて、この哺乳類の仲間で、『鼻行目』に該当する生物をご存じですか。

 日本軍の捕虜収容所から脱走したスウェーデン人のエイナール・ペテルスン・シェムトクヴィスト氏により、1942年に南海のハイアイアイ群島で発見された生物です。
 この生物が他の生物と最も変わっているのは、鼻です。通常、哺乳類には鼻は1つしかありませんが、鼻行目は鼻が1個の場合もありますが多数存在する場合もあります。発生の初期段階で、胎児の鼻の原基が複数に分裂し、それにより多鼻化が生じるそうです。多鼻化により、発生の段階で顔面筋に由来する特殊な筋肉が鼻の前後に分布し強化され、また、それに伴い側鼻腔とそこに分布する海綿体が著しく変形し大型化しています。そのため、巨大化されすぎた鼻腔に取って代わり、涙管が外気道(※呼吸の空気の出入り口)としての役割を果たしているそうです。
 このような発生段階のちょっとした変化により、鼻行目は、極めて珍しいことに、移動手段として鼻を用います。手っ取り早くいうと、足ではなくて鼻を使って歩くのです。日本ではあまり知られていないので、想像しにくいかもしれません。気になる方は、画像で検索してみてください。

 『鼻行目』に関する専門書としては、ドイツ人の博物学ハラルト・シュテュンプケ氏が書き、日高敏隆氏が翻訳した『鼻行類―新しく発見された哺乳類の構造と生活』に詳しいです。ただし、専門書特有の書き方なので、慣れていない人は読みにくさを感じるかもしれません。

 私は大学生の時に、この本を手に取り、へぇえーー、こんな生物がいるんだ!ってすっごく感動したことを覚えてます。もちろん、バリバリ信じましたよ、もちろん。だって、理論的に専門的に詳細に整然と記載されているし、生物学や博物学の専門家が書いたり訳したりしている訳だし。ウソとかジョークとか、どこにも書いてないし。そんな雰囲気も全然なかったし。
 ただ、読んでいてちょっとおかしいかなぁとは思うところはありました。例えばナキハナムカデという鼻行類には、19対の鼻があり、そのうち1対は触覚として働き、残りの18対すなわち38個の鼻は移動器官すなわち足として働くけれども、求愛行動時には楽器としてはたらき、38個の独立した楽器をオーケストラのように自由に操ることができる、と書いてあって、そこまでできるの? そういうもん? 何かちょっと変な気がしなくもないけど、でも、信じよう、って思いました。

 で、結果として、この生物は全くの架空の生物だったそうです。なんだなんだなんだ、ひどいのひどいのひどいの! 日高氏によると、真に受けた学生や大学教授も随分いて、正式な問い合わせや、標本貸出の依頼もあったそうです。
 この件に関して、人の悪い日高氏は、こう書いています。
 

 人間は理屈にしたがってものを考えるので、理屈が通ると実証されなくても信じてしまう。実は人間の信じているものの大部分はそういうことではないだろうか。
 いつもぼくが思っていたのは、科学的にものを見るということも、そういうたぐいのことで、そう信じているからそう思うだけなのではないかということだ。
 

 そして、鼻行目に関するエッセイでは、このように括っています。

 どんなものの見方も相対化して考えてごらんなさい。科学もそのうちのひとつの見方として。
 自分の精神のよって立つところに、いっさい、これは絶対というところはないと思うと不安になるが、その不安の中で、もがきながら耐えることが、これから生きていくことになるのではないかとぼくは思う。
 近い将来、人類はほんとうに無重力空間に出ていく。
 ならばその精神もまた同じように、絶対のよりどころのない状態をよしとできるように成長することが大切ではないだろうか。
 それはとても不安だけれど、それでこそ、生きていくことが楽しくなるのではないだろうか。


【参考文献】
日高敏隆著『世界を、こんなふうに見てごらん』集英社、2010年(※ピンク色の文章はここから引用)
ハラルト・シュテンプケ著、日高敏隆・羽田節子訳『鼻行類思索社、1987年