セサミ色々日記

雑談に変更

変人のすすめ:その1

タイトルを「セサミ読書日記」から「セサミ色々日記」に変えました。

今私が読んでいる本は特殊すぎて、ここで紹介するのが非常にためらわれたため、書けなくなっていました。

というわけで、昔のブログの引越しと、いろんな雑談を書いていこうと思います。

 

4月からはコロナ騒動で、最初は正直、ひまになるかなぁ、じゃあユーチューブでも作ろうかなぁ、と思っていたのですが、ZOOMの授業が結構忙しかったり、また4月から週2回専門学校の授業も入ったため(※これも今のところZOOM授業)、すここ2か月くらいはいつもよりも忙しく、わたわたと過ごしていました。

 

コロナ騒動でよかったことは、オンラインの仕事や教育が普及したことです。満員電車に乗らなくていいし、通勤・通学時間がかからないし、これらの点においては、かえって良かったのではと思います。

 

あとね、ZOOMでいろいろな授業ができる、ってことに気づいたのも、人類にとって(?)大きな利点だと思います。世界中の多くの人々が、ZOOM授業を当たり前のものとして受け入れているわけで、これも怪我の功名的な感じだと思います。

 

さて、前回、「Laughter Yoga」(大声で笑うヨガ)についてのブログの引越しをしました。

日本人は大声で騒ぐ人を歓迎しない傾向が強いので、日本で定着させるのは難しい気もしますが(※通報されそう・・・)、でもね、これ、やってみるとわかるのですが、すっごく気持ちいいんです。めちゃくちゃ気分爽快!!!今まで味わったことのない感覚です。インドから日本に帰った直後の1,2週間は、Laughter Yogaをやりたくてやりたくて仕方なかったのでした。

 

そこでふと、先日、ZOOMでLaughter Yogaの授業をやってないかと検索してみたら、なんとありました!!!

インド人の先生がインドから発信するのですが、1回1時間の授業が7回で1セットで、受講料が99USドル(日本円にして約1万円)です。

インドとアメリカの時差はちょうど12時間で、アメリカだと朝の6時半になり、アメリカに住む人々にとってちょうどいい時間帯になっています。

おそらく、アメリカの人々をターゲットにしているんじゃないかなって思いました。だから、ウェブサイトでの値段設定もアメリカドルで表示されていたし。

日本だと夜の10時で、この時間帯にうちのマンションで大声で笑っている声が漏れてしまい、通報でもされたらやなので、セサミの教室を締め切ってやれば何とかなる!と思い、申し込んでしまいました。

というわけで、皆さん、6~7月の間、夜にもし大声を出したくて出したくて仕方なくなってしまったら、セサミの教室に来てください!

一緒に変人になりましょう!!!

ゲーム理論番外編

 以前書いていたブログの引越しの続きです。
 ここでは全部のブログを引っ越しているわけではなく、特に自分的に思い入れの深いもののみを選んで、移しています。
 今回はゲーム理論に関するものです。自分的には特に気に入ってもいないので削除しますが、この番外編のみは好きなので、ここに移すことにしました。インドネタは、面白いんですね。ではでは。
 
2012年8月15日
 以前、インドのニューデリーに滞在していた時、早朝に公演を散歩していたら、数人の男の人たちが大声で笑う声が聞こえてました。びっくりして何だろうと思って声のする方に近寄ってみたら、30代〜60代位までのインド人の男の人たちが7,8人で輪を作り、目一杯の大声を出しながら、「ワッハッハッ〜〜!」と笑い合っているのです。何事何事?!と思っていると、私の横を散歩していたおじさんもいきなり遠くから参加するように、「ワッハッハッ〜〜!」と言い出しました。その声量が半端でなく大きくて、大声コンテストって感じで。
 で、いきなり参加おじさんに、大声で笑っている理由を聞いてみたら、ヨガをやっているとの答えが返ってきました。
 へ???ヨガ? ヨガって体の一部をむずかしくくねらせてポーズをとったりするもんじゃないの? 頭の周りに?マークをいくつも浮かべている私をみて、いきなり参加おじさんは、「いやいや、大声を出して笑うヨガなんだ、体にいいんだよ、明日から参加してみると良さがわかるよ」と言い、サービス精神旺盛にも大声で笑いながら去っていきました。

 後で調べてみると、確かにヨガの一種で、「ラフターヨガ」と呼ぶそうです。ウィキペディアにはこう説明されています。

  1995年、インドのムンバイに住む内科医の Madan Kataria と妻でヨガの先生である Madhuri Kataria によって「面白くなくても笑っていれば脳は判断しない」という発見から開発された。(中略)
  従来のヨガの呼吸法に「笑い」を取り入れ、年齢や性別や障害にとらわれずできる笑いの体操(笑いの健康法)である。「ヨガ」という名称ではあるが、難しいポーズをとることはない。ラフターヨガのヨガとは、ヨガの呼吸法という意味で、声を出して笑うことによって新しい酸素を体内に取り入れる。ユーモア、ジョークに頼らず、笑いを一つのエクササイズ(運動)としてグループまたは一人で行う。脳は作り笑いと本物の笑いを区別できないと言われているため、作り笑いでも脳に対しては同等の効果があると言われている。アイコンタクトを伴う笑いと、遊び心を促すエクササイズの助けで、セッション開始時の作り笑いは、ほどなく本物の笑いへと変わる。15分 - 20分以上笑い続けることによりリラックスでき、健康効果が得られる。インドの公園で5人から始まり、2010年現在では、世界65か国以上、10,000以上のグループが活動している。


 翌朝、勇気を出して、オレンジ色のダポっとしパジャマみたいな服を着て、白髪交じりの長いヒゲをはやし、痩せていて、穏やかな風貌だけど目はギョロリとしていて、あ〜あんまり上手く書けないけれど、もういかにもヨガの指導者です!って感じの人に、参加させてくださいと頼み込んでみたら、即座にOKが出て、それ以降ちょくちょく参加させてもらえるようになりました。指導料はなしの無料でいいとのことでした、ありがたい。その先生(『グルジー』といいます)はどうやら皆に無料で教えていて、公的機関や大学などの講演会等に呼ばれたときだけ、お金をもらっているようでした。更に、参加して2,3日後に知ったのですが、男性と女性は分かれてやっていて、女性グループは公園の別の場所でもっと短時間、地味にやっていたのですが、どうも大声を出しきれていなくてつまらなそう。
 私は(※一応女性です、はい)、外人だから大目に見てもらえたのか、あるいは性別不能と思われたのか(※いや、それはちょっと悲しい・・・)、ともかく何のお咎めもなかったので、そのまま男性グループで続けさせてもらいました。指導者グルジーや、参加者のマリオおじさん(※スーパーマリオに似ている)やボウイおじさん(※ディヴィッド・ボウイに似ていて格好良い60代)やキンドーおじさん(※マカロニほうれん荘のきんどーさんに似ている、古いですね)などの数人のおじさんたちの手ほどきを受け、見よう見まねで少しずつわかるようになってきました。

 最初はヨガの呼吸法みたいのを行い、次に押し殺した声で笑い、次にだんだん大きな声で笑います。そのあと、一人一人が順番にギャクみたいなことを言って皆を笑わせます。ギャグってもちろんヒンズー語で言わなきゃいけないんですが、私ヒンズー語しゃべれないから、皆が言っていることを適当に真似して大げさなジェスチャーつけて自分でも何を言っているのか訳のわからない言語を発し、多分皆も何を言っているのか全然わからなかったと思うけど、ありがたや、笑ってくれました。
 最後に一列になり、まあ当然私が最後尾で、手を叩きながらヒンズー語のセリフを唱え(※メリトリメリハ、みたいな感じ)、円を描いて歩き、最後にヒンズー語のお祈り(※イタニシャッテハメテナダタ、みたいな感じ)をして終わる、というものでした。もちろん、ヒンズー語のセリフは、見よう見まねではなく聞こう聞き真似で、頑張って唱えました。
 このラフターヨガは、本当に気持ちいいんです。大声を出すってことがこんなに気持ちいいとは知らなかった。日本に戻ってしばらくの間、一人でラフターヨガを公園でやりたい衝動を抑えるのに必死でした。そのうち時間ができたら、インストラクターの資格とって、やろうかなぁ、やりたいなぁ。


 で、いきなり話が飛びますが、後でつながります。
 8月4日付の朝日新聞デジタルの記事で、西原理恵子氏が、いじめについて、こんなことを書いていました。

  うそをついてください。
  まず仮病(けびょう)を使おう。そして学校に行かない勇気を持とう。親に「頭が痛い」とでも言って欠席すればいい。うそは、あなたを守る大事な魔法(まほう)。人を傷つけたり盗んだりするのでなければ、うそって大事よ。これからも、上手(じょうず)にうそついて生きていけばいいんだよ。(中略)
  いくら紛争地帯(ふんそうちたい)でも、年間3万人も死ぬことはそんなにありません。でも、日本ではそれくらいの人々が自殺しています。そう、この国は形を変えた戦場なんです。戦場では子どもも人を殺します。しかも、時には大人より残酷になる。


 これを読んで、日本はインドみたいになったんだなぁって思いました。
 以前、あるインド人に、「インドでは自分を守るためにウソをつくことは、ちっとも悪いことではないんだ、いや、そうする必要があるんだ」と言われたことがあります。インドの人、すみません、決してインドを悪く言っている訳ではないんです。長年に渡るカースト制度がまだまだ現実的に根強く残っているインドの過酷さを、どう書けばいいのだろう。いや、ちょっとインドに行った程度の私には、わかっていることなんて、皆無に等しい、ちょっと感じた程度だけ。ごめんなさい、全然ちゃんと書けない。ただね、インド人の中には、ひたすら真面目に生きていこうとする人たちもいる、私はありがたいことに、そういう人たちにも出会えた。彼ら彼女らはこの過酷なインド社会を、どうやって生き延びてこれたんだろう。

 で、話が元に戻ります。
 ラフターヨガに参加していたある日、私はちょっと落ち込むことがあって、でもそれを悟られないように普通に大声で笑っていました、いや、そのつもりだった。笑いを終えて、さあこれから一列になってヒンズー語を唱えようというときに、私が列の最後尾に並ぼうとすると、その場にいた6,7人のおじさんたちが、何の打ち合わせもなく、すっと、私を列の真ん中に入れてくれたんんです。その後、お祈りを唱え終わるまでの間、ほんの4,5分だけど、彼らは私を守ってくれ元気づけようとしてくれているように、感じられたんです。

 その翌日からは、またそれまで通りに進んでいったのですが。たまに、ふと、毎朝ラフターヨガに参加しているおじさんたちは、どんなことを抱えているのだろう、ってちょっと考えるようになりました。短い期間だったので、私には知ることなど到底できなかったけれど、もしかしたら皆、明るい笑顔をして大声で笑い合って、色んなことを吹き飛ばして、日々過ごしていたのかもしれない、わからない。

 これからゲーム理論について書いていきます。社会的な様々な戦略を練ったり、あるいは人間関係を改善するためのツールとして、ゲーム理論は役立つと思います。テクニックとして上手く使えば、とっても有用なものだと思います。
 でも、その一方で、ちょっとだけ、あのおじさんたちの大声の笑顔の前ではゲーム理論なんて吹き飛んでいってしまうだろうなって気もしているんです。

世界を、こんなふうに見てごらん:その3

前回のブログで算数オリンピックの予選大会のことを書いていました。今年は開けるかどうか、まだわからない状況です・・・

初めてから今年で9回目の開催になる予定です。昨年には、ジュニア数学オリンピックで銅メダルを取った生徒さんもいます!!!

でもなぜか、1回目のときが、一番どきどきどきどきしたことを覚えています。

下記の文章で日高氏が言うように、最も不安で必死だったからだと思います。ともかく必死で必死で、だからこそ、良かったのかもしれませんね。

今は、日本中がある意味必死です。この大きな荒波を乗り越えると、別の世界が広がるように思います。

 

2012年4月23日

何が科学的かということとは別に、まず、人間は論理が通れば正しいと考えるほどバカであるという、そのことを知っていることが大事だと思う。
 そこをカバーするには、自分の中に複数の視点を持つこと、ひとつのことを違った目で見られることではないかと思う。
(中略)
 神であれ、科学であれ、ひとつのことにしがみついて精神の基盤とすることは、これまでの人類が抱えてきた弱さ、幼さであり、これからはそういう人間精神の基盤をも相対化しないといけないのではないか。
 頼るものがあるほうが人間は楽だ。それにしたがい、疑問には目をつぶればいいのだから。


 生物の分類は、大きい枠組みから、『ドメイン・界・門・綱・目・科・族・種』に分けられる。人の場合だと、『真核生物・動物界・脊椎動物門・哺乳綱・サル目・ヒト科・ヒト属・H.Sapiens(ホモ・サピエンス)』となります『綱』は日常生活では『類』で用いられることが多く、哺乳綱は、哺乳類と同じことです。

 さて、この哺乳類の仲間で、『鼻行目』に該当する生物をご存じですか。

 日本軍の捕虜収容所から脱走したスウェーデン人のエイナール・ペテルスン・シェムトクヴィスト氏により、1942年に南海のハイアイアイ群島で発見された生物です。
 この生物が他の生物と最も変わっているのは、鼻です。通常、哺乳類には鼻は1つしかありませんが、鼻行目は鼻が1個の場合もありますが多数存在する場合もあります。発生の初期段階で、胎児の鼻の原基が複数に分裂し、それにより多鼻化が生じるそうです。多鼻化により、発生の段階で顔面筋に由来する特殊な筋肉が鼻の前後に分布し強化され、また、それに伴い側鼻腔とそこに分布する海綿体が著しく変形し大型化しています。そのため、巨大化されすぎた鼻腔に取って代わり、涙管が外気道(※呼吸の空気の出入り口)としての役割を果たしているそうです。
 このような発生段階のちょっとした変化により、鼻行目は、極めて珍しいことに、移動手段として鼻を用います。手っ取り早くいうと、足ではなくて鼻を使って歩くのです。日本ではあまり知られていないので、想像しにくいかもしれません。気になる方は、画像で検索してみてください。

 『鼻行目』に関する専門書としては、ドイツ人の博物学ハラルト・シュテュンプケ氏が書き、日高敏隆氏が翻訳した『鼻行類―新しく発見された哺乳類の構造と生活』に詳しいです。ただし、専門書特有の書き方なので、慣れていない人は読みにくさを感じるかもしれません。

 私は大学生の時に、この本を手に取り、へぇえーー、こんな生物がいるんだ!ってすっごく感動したことを覚えてます。もちろん、バリバリ信じましたよ、もちろん。だって、理論的に専門的に詳細に整然と記載されているし、生物学や博物学の専門家が書いたり訳したりしている訳だし。ウソとかジョークとか、どこにも書いてないし。そんな雰囲気も全然なかったし。
 ただ、読んでいてちょっとおかしいかなぁとは思うところはありました。例えばナキハナムカデという鼻行類には、19対の鼻があり、そのうち1対は触覚として働き、残りの18対すなわち38個の鼻は移動器官すなわち足として働くけれども、求愛行動時には楽器としてはたらき、38個の独立した楽器をオーケストラのように自由に操ることができる、と書いてあって、そこまでできるの? そういうもん? 何かちょっと変な気がしなくもないけど、でも、信じよう、って思いました。

 で、結果として、この生物は全くの架空の生物だったそうです。なんだなんだなんだ、ひどいのひどいのひどいの! 日高氏によると、真に受けた学生や大学教授も随分いて、正式な問い合わせや、標本貸出の依頼もあったそうです。
 この件に関して、人の悪い日高氏は、こう書いています。
 

 人間は理屈にしたがってものを考えるので、理屈が通ると実証されなくても信じてしまう。実は人間の信じているものの大部分はそういうことではないだろうか。
 いつもぼくが思っていたのは、科学的にものを見るということも、そういうたぐいのことで、そう信じているからそう思うだけなのではないかということだ。
 

 そして、鼻行目に関するエッセイでは、このように括っています。

 どんなものの見方も相対化して考えてごらんなさい。科学もそのうちのひとつの見方として。
 自分の精神のよって立つところに、いっさい、これは絶対というところはないと思うと不安になるが、その不安の中で、もがきながら耐えることが、これから生きていくことになるのではないかとぼくは思う。
 近い将来、人類はほんとうに無重力空間に出ていく。
 ならばその精神もまた同じように、絶対のよりどころのない状態をよしとできるように成長することが大切ではないだろうか。
 それはとても不安だけれど、それでこそ、生きていくことが楽しくなるのではないだろうか。


【参考文献】
日高敏隆著『世界を、こんなふうに見てごらん』集英社、2010年(※ピンク色の文章はここから引用)
ハラルト・シュテンプケ著、日高敏隆・羽田節子訳『鼻行類思索社、1987年

世界を、こんなふうに見てごらん:その2

2012年4月22日(※ああ、もう8年も前なんだ・・・)

「フラット化した世界では、アメリカ人の仕事、日本人の仕事などというものはありません。仕事は誰のものでもなく、最も生産性が高く、最も優秀で、いい結果を出せ、そして、時に最も賃金の安い担い手のところにいくことになります。
(中略)フラットな世界では、“誰かが代わりのできる仕事”と“誰にも代わりのできない仕事”の二つしかありません。簡単にデジタル化したり、自動化したり、外国に移転できる仕事は“代替可能な仕事”なのです」
 「私は1950年代、ミネソタで少年時代を送りましたが、両親はいつも私にこう言いました。『トム、ご飯を残さず食べなさい。インドや中国の人はお腹をすかしているのですから』と。今、私は孫娘たちに言います。『ちゃんと宿題をやりなさい。インドや中国の人は、お前が将来就く仕事をお腹を空かして狙っているんだから』と」
(『フラット化する世界』の著書トーマス・フリードマンへのインタビュー in 『インドの衝撃』)



 以前インドを旅行していたとある日曜日に、私は美味しいマンゴーを買おうと、公園の前にある屋台の果物屋さんに並んでいました。すると通りがかりの50歳前後の男の人にいきなり「お前はアレルギーで肌がちょっと荒れているではないか」と言われ(※まあ、その通りなんですが)、「それにはニームの葉が効く。確かこの公園にニームの木が生えていたから、その葉を食べるといい」と言われ、はい?何事?と思っていたら、「確かあっちの方に生えていたから、仕方がないから一緒に探してあげよう、来い来い」と言われ、いえ私はただ単にマンゴーを買いたいだけなんですけど、と思いつつもその勢いにのまれ、ついていってしまいました。
 しばらくいくと、大きな木を指して「これがニームの木だ。だけどこれはダメだ。若い葉の方がよく効くから、もう少し探そう」と言われ、はいわかりましたと従い、私はマンゴーを買いたかっただけなんですけどと思いつつもそれは言わず、それから一緒に5分位探し、小さめの木を見つけました。
 「生えたばかりの葉がいいんだ」といい、その男の人は葉を数枚むしり取り、自分で食べてみせ、私にも食べろとすすめてくれました。成り行き上、まあいいやと腹をくくり、私も食べました。
 「ニームの効用は色々とあり、そうだ、私の娘はアメリカの製薬会社に勤めていて、私よりも詳しいから彼女に聞くといい」と言い出し、え、え、え、私が聞くの? え、え、何事? 私はマンゴーを買いたかっただけなんですけど、と思っている間に、その男の人は携帯でお嬢さんに電話して簡単に経緯を説明に、私に携帯を手渡したのでした。私は仕方なく、いや、ありがたく、見ず知らずのお嬢さんからニームの効用についての説明を3分ほど受たのですが、『早口でインド訛りの英語をしゃべるお嬢さん+英語の聞き取り能力が貧弱な私』という残念なコラボであったため、ほとんど内容はわからなかったけれど、とりあえず一生懸命お礼だけは言って、電話を終えました。
 その後、ニームおじさんは、「では私はこれからあの木陰で読書をしようと思う。読書に没頭したいので邪魔しないでくれ。では」と言い放ち、私は「はい、もうお手間はとらせません、お邪魔いたしました、ありがとうございました」とお礼を言い、なぜか無理やり渡された、いや、ありがたく頂戴したお嬢さんの名刺と、葉のついたニームの小枝を手にし、マンゴーを買うことなんてすっかりと頭から抜け落ち、すごすごと戻ったのでした。
 あとでネットでニームについて調べてみると、アレルギーに効くかどうかはわかりませんが、確かにニームの葉は生で食べたりお茶にして飲んだりする万能薬で、かつ、害虫を寄せ付けないというグレイトな植物であることがわかりました。

 ところで、話は変わりますが、インドに行ったことのある人は、ほぼ全員、インドという国は本当にきつい、と言います。私は中国やアメリカくらいしか行ったことがないので、多くの国と比べることはできませんが、でも、きついというのはすごくわかる。インドから帰った直後は、正直言って、北○○がミサ○ルを誤発射してイ○ドに落としてくれないかと思ってしまうほどきつい。すっご~く嫌なことが9割位あって、でも残りの1割は、本当にとってもとっても良いことがあり、でもって能天気な私は、時が経つにつれて嫌なことは薄れてしまうんです。

 日本人は謙虚が美徳とされていますが、人口がとんでもなく多いインドでは、謙虚になんてしていたら、あっという間に取り残され餓死しかねないような厳しい環境です。そのせいかどうかわかりませんが、私の知っているインド人は、初対面では、自分を目一杯、これでもか!これでもか!という位に過大評価して自己紹介をします。過大評価と書きましたが、一言でいうと、うその連続です。「インド人は全員うそつきだと思った方がいい」と知合い(日本人)に言われたとき、最初、それは言い過ぎでしょと思いましたが、確かにその通りかも・・・と思ってしまいます。
 また、時間に思いっきりルーズというかなんというか、日本ではよく、「あと5分」とかいいますが、私の知っているインド人は「あと2分」、「あと5分」、「今日中」、「明日」といったことをよく言います。
 「あと2分」と言われたら、早くて10分、遅くて1時間位を意味し、「あと5分」と言われたら、早くて30分、遅くて2~3時間位を意味し、「今日中」と言われたら、今週中位に思っているとちょうどよく、「明日」と言われたら、まあ、そのうち明日はやってくるかもしれないしやってこないかもしれない、という心構えでいるといいのです。

 しかし、ある時、知合いのインド人に、「日本人は冷たく不親切で、嘘つきで、時間に遅いから嫌に思うことがある」と言われ、びっくりしたことがあります。日本人のイメージって、礼儀正しくて優しくて温厚で、時間にきちんとしているのじゃないの?(注:及川は除外してください) そんなこと、インド人に言われたかねーよ!と思いましたが、その後、説明を聞くと、確かにと納得してしまいました。

 私の知合いのインド人は、初めて日本に来て道を聞いたとき、多くの人は教えてくれずに手を左右に振って去っていってしまう、中には近づいただけで逃げていってしまう人もいて、すっごく傷ついたというのです。英語があまりしゃべれない日本人だと、そうなってしまうんだよと答えましたが、だったら英語の話せる人を探して教えてくれればいいじゃないか、少なくともそんな去り方をするなんて、なんて冷たく無礼な国民なんだろうって思った、と言うのです。ちなみにその知合いは日本大好きで、日本をとっても評価してくれている人なんです。だからこそ、率直な意見を言ってくれたのだと思います。
 インドで道を聞いたら、確かにみな、知っている場合は教えてくれるし、わからない場合はそばにいる人達に色々と聞いて教えてくれます。わからなくてもともかくも何かを教えてあげなければならないと考えるらしく、誤った情報ばかりを教えてくれることも少なくありません、っていうか、そういう場合が多いです。それでなくても道に迷っているのが超ドつぼにはまってしまい、もう本当に迷惑!だったら最初からわからないって言ってよ!と思うのですが、インド人に言わせるとそんな失礼なことはできないというのです。親切や不親切、礼儀正しいや無礼のとらえ方は、国や人によって色々なんだなぁと思います。

(※ここからが付け足し分です)

 日本人はよく社交辞令で、お世辞を言ったり、「今度是非遊びにいらしてください」というようなことを言いますよね。これが嘘つきに感じられるそうなのです。しかも、笑顔で感情を隠すので、より薄気味悪く感じられるそうなのです。言われてみれば、確かにその通りかもしれない。日本では礼儀と考えられていることが、他の国にとっては単なるうそに思えちゃうんですね。

 また、日本人は何か物事を決定する時に、その場ですぐに決断することができず、集団や上位の人の意見をうかがってから時間をかけて返答をすることが多いですよね。自分一人でその場でスパッと決めることができないのが、すごく不思議に思うらしんです。また慎重に時間をかけて決断することが、すっごくとろく感じられるらしいのです(※このことは、数人のインド人から言われました)。これも、言われてみればなるほどと納得してしまいました。
 同じ物事でも、側面をちょっと変えると、全然違った風に見えるんだなぁ。

 で、話が変わります。
 来月、セサミで初めて、算数オリンピック大会の予選を開催することができるようになりました。やったぁー! これもひとえに、優秀な生徒さんたちが集まってくれたおかげです。予選突破目指して頑張ろう!オー!! でも、予選にチャレンジするだけでも、すごいことだと思います。
超難関の予選を突破し、さらに日本のトップ50位以内に入れれば、中国に行くことができ、中国のトップ50と対決することができるそうなのです。
 中国行きを目指して皆より奮闘してくれるかな、と思って、このことを言ったら、ほぼ全ての生徒さんから「中国には行きたくない」と言われてしまいました。どうしてかと理由を聞いたら、「中国はドラえもんとかミッキーとかキティちゃんとかの、色んなキャラクターのコピーばかりしている国だからいやだ」と言うのです。
 みんな、テレビの情報だけに洗脳されてしまっているように見えて、ちょっと悲しかったです。もちろん、生徒さん達が悪いのではなくて、そんな番組ばっかり作っている側に問題があるのですが。

 中国のコピーが別にいいとは思わないけど、そんなこと言っている暇があるのだったら、日本の経済発展を少しでもよくするにはどうしたらいいかを考えていった方が、よっぽど建設的じゃないかなぁと思うんです。中国の悪い点ばかり取り上げるのは、中国の発展をねたんでいるようにしか見えなくて、なんか、みっともないなって私は思ってしまうのです。

 そもそも、日本の文字は全て中国のコピーだし、プロ野球チーム名のタイガースやジャイアンツ等は大リーグのパクリだし。 
 ウッディ・アレンが1973年に作成した映画『スリーパー』の中には、「このくそぼろ機械め。日本製だな」と言う場面が出てきます。1970年代前半ではまだ、日本製=粗悪品というイメージだったのですね。日本製のものは品質が高い、と評価されるようになったのは、それほど昔のことではないようです。
 ということは、今は日本製のものは中国製やインド製よりも品質が高いかもしれませんが、あっという間に追い抜かれてしまう可能性は大です。いや、このままだとすぐに追い抜かれちゃうだろうな、って私は考えてます。
 中国が真似してるとか何とか言っている余裕があるのだったら、追い抜かれないようにするために、あるいはそれが無理なら他の分野で抜きん出ることができるように、必死に頑張らなきゃいけないんじゃないの?って私は思ってしまうんです。

世界を、こんなふうに見てごらん:その1

今使っているパソコンはウィンドウズ7です。一度壊れかけたのを無理やり治したので、反応がとてもにぶくなっています。

以前のブログのIDやパスワード(※全て忘れてしまった)はこのパソコンが記憶しているので、パソコンが動くうちに、ブログの引越しを終えたい!

そのため、当分、以前のブログ引越しが続きます。

2012年4月6日

「ダニには目がない。皮膚にそなわった光の感覚を頼りに灌木の枝先によじ登り、温血動物が通りかかるのを待っている。その下で、動物の皮膚が発する酪酸のにおいがしたら、とたんに落下する。
 そのにおいはエサの信号なのだ。温かいものの上に着地したことがわかったら、ダニは触覚を頼りに毛の少ない場所に移動し、血液を吸う。
 つまりダニにとっての「世界」は、光と酪酸のにおい、そして温度感覚、触覚のみで構成されている。ダニのいるところには森があり、風が吹いたり、鳥がさえずったりしているかもしれないが、その環境のほとんどはダニにとって意味を持たない。
 世界を構築し、その世界の中で生きていくということは、そのいきものの知覚的な枠のもとに構築される環世界の中で生き、その環世界を見、それに対応しながら動くということであって、それがすなわち生きているということだ。(中略)
 人間は人間の環世界、すなわち、人間がつくり出した概念的世界に生きている。人間には、その概念的世界、つまりイリュージョンという色眼鏡を通してしか、ものが見えない。」



 人には聞こえないけれど犬や猫には聞こえる音を出す「犬笛」というものがあります。ご存知の方も多いと思います。犬や猫は、人間には聞こえない高い音を聞くことができ、ピアノの鍵盤の高音部に、更に4オクターブ付けくわえた分ほど、聞き取ることができるそうです。
 動物の種類によって、音の聞こえる範囲(可聴域)は異なり、ほ乳類だけで比較してみても、人の可聴域は12ヘルツ~2万3000ヘルツであるのに対し、犬は15ヘルツ~6万ヘルツ、ネコは45ヘルツ~6万4000ヘルツで、イルカの場合は15万ヘルツまで、コウモリの場合にはなんと40万ヘルツまで、聞き取ることができるそうです。

 生物によって見える色の範囲も異なり、人の可視光線は約380~810ナノメートル(紫色~赤色)ですが、昆虫類は紫色よりも波長の短い紫外線を見ることができ、またヘビは赤色よりも波長の長い赤外線を見ることができるそうです。ヒトには単にまっ白いお花にしか見えないのが、紫外線カメラで写してみると結構派手な模様があることもあります。同じお花を見ていても、人とチョウやミツバチでは、全然違うお花を見ていることになる。
 音や色だけでもこんなに違うのに、匂いや温度や様々な刺激を考えてみたら、同じ場所にいても感じ方は生物によって全く違ってくる。上述の日高氏の文章は、そのことをあらわしています。

 セサミの某講師が、以前、「スマホのカメラには赤外線がちゃんと写るんですよ」と突然言い出し、「やっぱ、人には見えないけれど実在しているものがたくさんあるってことが、こんなことからもわかるんですよね」と話していました。
 彼はとても賢明で有能で謙虚で、その上、発想が変わってるというか面白いというか飽きないというか、動物学者の日高氏と同じようなことをいうなぁと思いながら聞いていました。

 日本の動物行動学の開拓者であった日高敏隆氏は、動物や昆虫に関する多くの著書や翻訳書を残しています。2009年11月に肺がんのためにこの世を去ってしまいました。日高氏がこの世を去る直前まで、雑誌に連載していた文章をまとめたものが、『世界を、こんなふうに見てごらん』という本です。
 日高氏は、今となっては一般に、日本を代表する偉大な動物学者となっていますが、研究の過程においては、かなり異端視されることも多かったそうです。どうしてか。日高氏は、科学万能主義的な考え方や、理論一辺倒の考え方を疑問視し続けたからではないか、と思います。
 それについては長くなってしまうので次回に書くこととして、今回は、日高氏の「なぜ」について、引用していきます。

 日高氏は昆虫やチョウが大好きで、子どもの頃、クロアゲハを捕ろうとしたとき、クロアゲハは高い木の梢の周辺しか飛ばないことを発見したそうです。もっと低いところを飛んでくれたら捕りやすいのに、なぜ、花もないのに、高い梢を飛ぶのだろうと、ずっと疑問に思っていたそうです。

 「考えたら、こんな「なぜ」はわかってもわからなくてもいいのではないか、くだらない「なぜ」なのではないかという気もする。それをあまり問う人はいなかったわけだが、不思議に思いはじめると不思議なのだ。
 そして、その「なぜ」は、調べていったというより、考えていったのだ。
 山の中で木がいっぱいあっても、アゲハは杉や檜などの人工林を飛ぶことはない。雑木が生えているところを飛ぶ。
 そこには卵を産める柚やカラタチといった植物が生えている。
 もしかしたら彼らはミカン科の木の葉っぱに卵を産んで(そこで)成虫になるから、花畑よりも木の梢のほうを飛んでいる雌が多いのではないか。雄はそこで雌に出会うのではないか。
 というぐあいに説明がついてくる。
 仮説を立てて、実際に調べてみる。
 具体的なことがわかってくると、だんだん一般にあてはまる理屈が見えてくる。
(中略)
 東大の理学部に入って、その話をすると、「なぜ」を問うてはいけないといわれた。
 なぜいけないのですかと聞き返したら、「なぜ」を問うことはカミサマが出てくる話になってしまう。How(どのように)は聞いてはよいが、Why(なぜ)を聞いてはいけないといわれ、そのことを疑問に思った。
 何人かの先生からは、そんなふうに考えるのなら東大をやめて京大に行けといわれた。それくらい「なぜ」という言葉は問題があるとされていた。(中略)
 物理学で物が落ちる、なぜ落ちるか。万有引力があるからだ、という。なぜ万有引力があるのか、とは聞かない。
 だが少なくとも生物の場合は、「なぜ」を問わないと学問にならないのではないかと思った。かなり厳しくそう思った。が、それ以上東大の先生たちとは議論しなかった。
 当時、科学というものは、「なぜ」を問わないものだ、と世の中一般にいわれていたと思う。(中略)
 自分の思った道を粛々と行けばいい。人を説得しなくては、なんて思わない。自分がそう思っていればいい、と思う。
 目の前のなぜを、具体的に、議論するのではなく、なぜだろうと考える。ある意味では、目の前の対象は具体性があるから強い。(中略)
 科学を志す人には、なぜということしかない。おおいに「なぜ」に取り組めばいい。自分の「なぜ」を大切にあたため続ければいいと思う。」


【参考文献】
日高敏隆『世界を、こんなふうに見てごらん』集英社、2010年

 

制約されざる人間2:ジャズ

2012年3月2日

制約されざる人間」とは、どんな制約の下でも人間らしくある者のことである。たとえどんなに劣悪で非人間的な制約の下でも、なお人間らしくあり続ける者のことである。つまり、いかなる制約の下でも自らの人間性を否定せず、むしろ制約に対して「自ら態度を取る」人間のことなのである。(中略)
 人間は、制約に「埋没」しないかぎり制約されざる者なのであって、事実、人間をすっかり「作り上げる」ような制約などは存在しないのである。制約はなるほど人間を条件づけるものではあっても、人間の本質を構成するものではない。(中略)
 人間は、存在論的意味では、制約されていることによってのみ、制約されざる存在なのである。(中略)人間は、制約されざる存在であらざるをえないのではなく、制約されざる存在であるべきである。
(V.E.フランクル『制約されざる人間』より)


 セサミの新しいホーム・ページが、やっと、ほぼ完成しました。ふー。講師・生徒対談も面白く仕上がって、結構満足なのであります。しかし私は3月10日頃まで、個人的に、死にそうに忙しいのであります。対談の原稿書いたり、ブログ書いたりしてていいのだろうか・・・

 それはそうと、対談でジャズの話が出てきたのですが、前回紹介した『選択の科学』には、ジャズ・トランペッターのウィントン・マルサリスの言葉が出ていたのを思い出しました。この人はジャズもクラシックも演奏し、両部門で9つのグラミー賞を獲得しており、作曲もするというすんごい人です。
 『選択の科学』の著書、アイエンガー氏は、マルサリス氏と話したことを、このように書いています。

・「ジャズにも制約が必要だ。制約がなければ、だれにだって即興演奏はできるが、それはジャズじゃない。ジャズには制約がつきものだ。そうでなきゃ、ただの騒音になってしまう」。
 マルサリスによれば、即興演奏の能力は、基礎知識を土台としているのだという。そしてこの知識が、わたしたちが「選択できること、実際に選択することを制限する」のだという。「選択しなければならないとき、知識は重要な役割を果たすんだ」。
 その選択がもたらす行動は、情報に基づく直感、つまりかれの言葉で言えば「超思考」に基づいている。ジャズにおける超思考は、ただ単に「正しい」答えを決定するだけのものではない。ほかの人には同じ音の繰り返しにしか聞こえないものの中に、新しい可能性を見出し、ほんのわずかしかない「有用な組み合わせ」を構築する能力でもあるのだ。


 前述の著書の訳者あとがきには、アイエンガー氏自身の、制約に関する考えが紹介されています。

・目が見えないことで選択を制限されることについてどう思うか、というインタビューに、彼女はこう答えている。
 選択に制約を課されることで、逆に、本当に大切なことだけに目を向け、選択しやすくなる。限られた選択肢を最大限活かすために、創造性を発揮することもまた楽しいのだと。


 制約と選択の自由とは、裏表になっているものなのかなぁ。う~ん、よくわからないなぁ、どうなっているんだろう?と私は最近考えていました。
 にっちもさっちもいかないような状況の中だったら、選択も自由も創造もへったくれもないでしょ、って、私は思って生きてきました。

 10か月位前だったかなぁ、ある人が、「状況は変えられないけれど、自分がどう行動するかは変えることができる。周囲は変えられないけど、自分を変えることはできる」と言ったのを聞いて、私は、「この人は何が言いたいのだろう? 自分がどう考えようが、どう振る舞おうが、状況が変わんなきゃ意味ないじゃん。訳わかんない」と思いました。しかしなぜか、私の考え方が浅はかなような気がして、ちょっとひっかかっていました。

 それから数カ月後、以前紹介した岡田尊司氏の著書に書かれていた以下の文章を読みました。

・感謝の気持ちをもてるか否かは、思いどおりにならない他者や世界をどう受け止めるかにかかっている。言い換えれば、自分というものの有限性をどう受け止めるかにかかっている。(中略)
 感謝の気持ちをもてる人は、自分ができないこと、自分には与えられないもの、自分に不利な状況を、決して自分を否定するものとは受け取らない。そうした困難や不愉快なことさえも、こうして与えられていることには何か意味があり、それは一つの恵みなのだと考える。有限性にこそ、自分を超える力と意味を見出すのである。


 困難な不愉快なことを、恵みと思えと言われても、困るし、それって無理でしょ、って、正直私は思ってしまいました。岡田氏はなぜこんなことを書くのだろう? 本気でそう思っているの? なぜそう思えるの?

 そして数週間前、ひょんなことからある本を手に取ったことがきっかけで、私は、ほんのちょっとずつだけど、わかってきたような気がしてるんです。(つづく)

 

2012年3月2日

 

制約されざる人間1:星野道夫、シーナ・アイエンガー

パソコンを入れ替えるにあたり、かつてのブログを閉じようと思っています。

そこで、しばらくは以前の動画の引越しが続きます。

 

2012年2月20日

僕とアラスカの関わりは、15年ほど前(※今から42年前)、18歳の頃に遡ります。(中略)そのころはアラスカの資料を日本で手に入れるのはとてもむずかしく、アメリカから何冊か本や資料を手に入れました。その中にとても好きな写真集があって、毎日毎日飽きるまで見ていたのですが、そのたびにどうしても見ないと気がすまないページがあった。北極海に浮かぶ小さな島にあるエスキモーの村の空撮写真で、ものすごくきれいだったんです。(中略)
 写真の説明書きをよく読むと、村の名前が英語で書いてあって、シシュマレフという村でした。地図を広げ、その村がアラスカのどこにあるのかを探しだすと、余計にその村に行きたいという気持ちが募ってきたんです。
 ところがどうやって行ったらいいのか分からない。知り合いもいない。でも思いは日々募っていく。
 それでとにかく手紙を書いてみようと思ったのです。ところが住所も分からなければ、誰に宛てればいいのかも分からない。(中略)それでアラスカの村7か所に「Mayor(※市長、村長という意味)」宛で投函したのです。手紙の中身は「あなたの村を訪ねたいと思っているのですが、誰も知りません。仕事は何でもしますので、どこかの家においてもらえないでしょうか」という内容をつたない英語で書きました。(中略)半年経ったある日、大学から家に帰ると一通の国際郵便が届いていたんです。
 それがシシュマレフという村に住むエスキモーの家族からの返事でした。「世話をしてあげるから今度来なさい」という簡単な内容のものだったけれど、僕はもう嬉しくてたまらなかった。(中略)それで翌年の夏にアラスカに行きました。
星野道夫氏の講演より】


 オリバー・サックスという人物がいます。神経学者であり、医者であり、作家(医学エッセイ?)でもあり、『レナードの朝』という映画の主人公としても知られています。
 先日、小学4年の生徒さんに、彼の著書『妻を帽子とまちがえた男』という本の一部を読んでもらいました。きちんと理解して読んでいたようです。驚きました。アマゾンの書評では、医学部生などが紹介をしているような本です。賢い高校生や、とっても賢い中学生なら読めるでしょうが、さすがに小学生は無理かなぁと思っていたのですが、いや、決めつけてはいけませんね。

 かつて予備校の講師をしていた時に、私が『妻を帽子とまちがえた男』についてちょっと紹介をしたら、授業後に一人の生徒さんがやってきて、「私はその人の『火星の人類学者』という本を読んだことがあります。とっても面白かったので、先生も是非読んでみてください。」と言ってくれました。

 オリバー・サックスの著書は、どれも、深淵で心揺さぶられる内容なのですが、中でも『火星の人類学者』が群を抜いて深潭に思われます。本当はこの本を小学生の生徒さんに読んでもらっても良かったのですが、1章の分量が多いため、また、この本を読むと、あまりの感銘の大きさに、私は冷静にしていられる自信がなかったため、避けてしまいました。興味のある方は手にとってみてください。この本を教えてくれた元生徒さんに感謝です。

 ちょうど同じ頃、動物行動学の話をしていたら、別の生徒さんが、「アラスカの動物の写真とかエッセイとかを書いている星野道夫という人の本がおもしろいですよ。」と言ってくれました。私はそれまで、星野道夫氏については名前だけ見たことはあったのですが、本を読んだことはなかったので、早速買って読んでみました。確か『森と氷河と鯨』という本だったと思います。

 星野道夫氏はアラスカの動物や風景などの写真家で、アラスカに関する著書も出しています。

 彼は、高校の頃、『ナショナル・ジオグラフィック』(1888年に発刊された月刊誌で、自然、科学、地理、歴史などを扱ったもの。世界で900万部以上販売)に載っていたアラスカのシシュマレフという村の写真に一目惚れしてしまい、それがきっかけでアラスカと関わるようになります。
 その発端が、上述の文章ですが、でも相当無茶ですよね。ネットもメールも携帯電話も存在していなかった42年前に、日本人の18歳の青年がいきなり、「アメリカ合衆国アラスカ州シシュマレフ村 村長様」という宛名で「なんでもやりますから、そちらに泊めてください」なんて手紙を出してしまうんですから。それで泊めてくれるほうもすごいですよね。結局彼は、3ヶ月間、アラスカで過ごしたそうです。

 星野氏は大学卒業後、田中光常氏という写真家の助手として2年間働いた後、アラスカ大学野生動物学部に入って勉強しようと考えます。ところが試験に不合格になったのですが、その時取った行動がまた相当無茶なんです。

 入学に必要な英語の試験を受けたら点数が30点足りなくて、不合格の通知が来たのです。でも僕はアラスカに行くことを決めていた。本当にやりたいと強く思うことはときとして勇気を生むようで、点数が足りなかったにもかかわらず、僕はそのまま日本を出てアラスカに行ってしまいました。それで学部の教授に直談判して
「点数が足りないだけで一年浪人することはとても考えられない。僕はもうアラスカに来ることを決めている」と言うと、その教授は少し変わった人で、僕の話をまじめに聞いてくれて入学を許可してくれたんです。


 一応、星野氏の名誉のために補足説明をしますと、当時アラスカ大学には留学生のための準備講座といったものは全くなく、留学生にはアメリカの大学生と全く同等の英語力を要求していたらしく、英語の試験もかなりきついものだったそうです。また、入学後は本当に猛勉強したそうです。
 でもさ、600点満点で30点も足りなかったくせに、ごり押しで入学してしまうとはすごい! 皆さんも是非とも、この根性を見習いましょう! でもできたら、合格点を取って入学しましょう!(つづく)

【参考文献等】
星野道夫著『未来への地図』朝日出版社、2005
星野道夫著『森と氷河と鯨』世界文化社、1996
オリバー・サックス著、高見幸郎・金沢泰子訳『妻を帽子とまちがえた男』晶文社、1992
オリバー・サックス著、吉田利子訳『火星の人類学者』早川書房、1997


p.s.
地球温暖化の影響で、シシュマレフ村の浸食されており、数十年後には完全に水没してしまう可能性が極めて大きいそうです。

 

2012年2月22日

「ぼくはシーシュポスを山の麓にのこそう! ひとはいつも、繰返し繰返し、自分の重荷を見いだす。しかしシーシュポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さをひとに教える。かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。このとき以後もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛だともくだらぬとも思えない。この石の上の決勝のひとつひとつが、夜にみたされたこの山の鉱物質の輝きのひとつひとつが、それだけで、ひとつの世界をかたちづくる。頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに十分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。
アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』)
 

 アメリカの名門ハーバード大学で、最も人気のある授業が、マイケル・サンデル教授の「JUSTICE(正義)」だそうです。NHKの「白熱教室」という番組で紹介されて日本でも人気となり、本屋さんにいくと本やDVDがたくさん売られています(※私はテレビを観ないので、本屋さんで知ったのですが)。
 白熱教室の第2段としてスタンフォード大学のティナ・シーリグ教授の授業が、第3段としてコロンビア大学シーナ・アイエンガー教授の授業が紹介されたそうです。現在、日曜の午後6時から、NHKのEテレでアイエンガー教授の授業が再放送されているようです。興味のある人は、観てみてください。

 町田の久美堂書店のレジ近くに、シーナ・アイエンガー教授の『選択の科学』という本が山積みになっていたのを見て、面白そうだなぁと思って私はつい買ってしまいました。

 アイエンガー氏は、『選択』というテーマで約20年間研究を続けました。その成果を1冊の本にまとめたものが『選択の科学』です。『選択』という概念を原点に置き、様々な座標軸・多種多様な切り口から『選択』について考察がなされています。アイエンガー氏は自らの著書をこう紹介しています。

 「本書は心理学にしっかりとした軸足を置きながらも、経営学や経済学、生物学、哲学、文化研究、公共政策、医学などをはじめとする、さまざまな分野を参照している。そうすることで、できるだけ多くの視点を紹介し、人生における選択の役割と実践に関する通説に、見直しを迫ることができればと思っている。」

 この本では、以下の8つの章に絞って、選択が論じられています。
「・第1講:選択は本能である:選択は生物の本能である。なぜ満ち足りた環境にもかかわらず、動物園の動物の平均寿命は短いのか。なぜ、高ストレスのはずの社長の平均寿命は長いのか

 ・第2講:集団のためか、個人のためか:父は結婚式のその日まで、母の顔を知らなかった。親族と宗教によって決められた結婚は不幸か。宗教、国家、体制の違いで人々の選択のしかたはどう変わるか

 ・第3講:「強制」された選択:あなたは自分らしさを発揮して選んだつもりでも、実は、他者の選択に大きく影響されている。その他大勢からは離れ、かといって突飛ではない選択を、人は追う

 ・第4講:選択を左右するもの:人間は、衝動のために長期的な利益を犠牲にしてしまう。そうしないために、選択を左右する内的要因を知る必要がある。確認バイアス、フレーミング、関連性

 ・第5講:選択は創られる:ファッション業界は、色予測の専門家と契約をしている。が、専門家は予測ではなく、流行を創っているのでは? 人間の選択を左右する外的要因を考える

 ・第6講:豊富な選択肢は必ずしも利益にならない:私が行った実験の中でもっとも多く引用され、応用されている実験にジャムの実験がある。ジャムの種類が多いほど売り上げは増えると人々は考えたのだが

 ・第7講:選択の代償:わが子の延命措置を施すか否か。施せば、重い障害が一生残ることになる可能性が高い。その選択を自分でした場合と医者に委ねた場合との比較調査から考える

 ・最終講:選択と偶然と運命の三元連立方程式:岩を山頂に運び上げたとたんに転げおちるシジフォス。神の罰とされるその寓話で、しかしシジフォスの行為に本当に意味はないのだろうか。人生もまた・・・」


 どの章もとても興味深く、色々と考えさせられる内容になっています。何が一番面白く思えるかは、その人が何に関心を持っているかによって異なってくると思います。
 
 私の場合は、第1章に書かれたラットの実験の話が、一番印象に残りました。
 かなり残酷なのですが、ある生物学者が、ラット(※実験用のネズミ)を1匹ずつ、水で満たしたガラスびんの中に入れて、溺れるまで泳ぎ続けさせると、どれくらい泳ぎ続けることができるか、という実験です。
 水温は一定に保ち、体力的にも同じくらいのラット数十匹を用いて実験を行ったそうです。ラットが泳ぐのをやめてただプカプカと浮いて休息しようとした場合には、即座に水を噴射し、泳ぎ続けるしかない状況に置いたそうです。
 その結果、15分間ほど泳いであっさりと諦めて溺れ死んでしまうラットと、体力の限界まで平均60時間泳ぎ続けてから溺れ死んだラットのどちらかにはっきりと分かれたそうです。驚いたことに、中間は存在しなかったそうなのです。
 諦めるラットはたったの15分で諦めてしまうのに対し、頑張るラットは60時間も頑張り続ける、この時間差に、私は愕然とするほど驚きました。限界まで挑むものの力強さを、ラットに教えてもらえた気がします。

 この実験には続きがあって、ラットをすぐにガラスびんにはいれず、何度か捕まえてその度に逃がす、ということをした後に、ガラスびんの中で溺れるまで泳がせるという実験をした場合、全てのラットが、諦めることなく、力尽きて溺れ死ぬまで、平均60時間以上も泳ぎ続けたのだそうです。

 逃げ出した経験のあるラット、つまり、自分の力で運命を創りだしていった経験のあるラットは、決してあきらめずに最後まで粘って頑張り続けることができるのです。そんなラットって、超格好いい!って思ってしまいました。私もラットを見習わなければ・・・。


 ところで、話は変わりますが、そもそもなぜ、アイエンガー氏は『選択』というテーマを選んだのだと思いますか?

 彼女も私も誰も、自分の人生を、運命によって決められているものだとして諦念して受け入れることもできます。予測不能の偶然に翻弄されるものだとして、流れに身を任せていくこともできます。数多くの制約や不条理があるとしても、それでも自分の人生は、自分で選択して切り開いていくものだと考えて、ラットのように頑張って泳ぎ続けることもできます。

 「わたしの両親は、1971年にインドからカナダ経由でアメリカに移住してきた。新天地で新しい人生を踏み出そうとした二人は、多くの先人たちのように、アメリカンドリームをつかもうとした。夢を追い求めるには苦難の道が続くことを、二人はほどなくして知ったが、けっしてあきらめなかった。わたしは、この夢の中で生まれたのだ。両親よりもアメリカでの生活に慣れていたわたしは、アメリカンドリームの何たるかを、二人よりずっとよくわかっていた。特にその中心にある、光り輝くもの、とてつもなく明るいために、目が見えなくとも見えるものに気がついた。
 それが、「選ぶ」ということだった。(中略)
 わたしは自分の人生を、すでに定められたもの、両親の意向に沿ったものとして考えることもできた。また自分の失明と父の死に折り合いをつける一つの方法として、それを自分の意思を超えた、思いがけないできごとの重なりと見なすこともできた。しかし、自分の人生を「選択」という次元で、つまり自分に可能なこと、実現できることという次元でとらえた方が、はるかに明るい展望が開けるように思われたのだ。」

(つづく)

【参考文系】
シーナ・アイエンガー著、櫻井祐子訳『選択の科学』2010、文藝春秋
アルベール・カミュ著、清水徹訳『シーシュポスの神話』1969、新潮文庫

p.s.
 先の実験では、ラットは15分泳ごうが60時間泳ごうが、どちらにせよ最後には溺れ死ぬしかなかったのだから、頑張るだけ損ではないか、という考え方もできるかもしれません。
 人間だって同じ。望みの薄いことにチャレンジして、すっごく頑張って努力して、労力を目一杯消費して、最後には結果が出せないのなら、全く意味がない。結果がついてこないのなら、そんなことやるだけ無駄。それよりも、要領の良い方法で裏技を使って結果を出す人間の方が利口だ、それができないのならば、最初から努力なんてせず、簡単に自分のできる範囲で満足した方がスマートだ、といった考え方もできるかもしれません。

 しかし、結果って何なんだろう?って私は考えてしまうんです。

 もちろん、結果は出せた方がいい。それまでの努力がくっきりとした形で証明されるのだから、結果を出した方がいい。
 でもね、もしも、もしも、目標に直結した結果がたとえ出せなかったとしても、その人が努力をしたという結果は残る。努力をしたという結果は、その人のその先の行動に、大きく影響してくると思うんです、もちろん良い意味で。人生という長いスパンで考えると、ちゃんと結果が残せていると思うんです。

 人は直接的な結果で判断されるものだ、と言われるかもしれません。
 でもね、目標に直結した結果が出せたにせよ出せなかったにせよ、どちらにせよ、努力をした人には、独特の雰囲気、特有の美しさが醸し出されるんです。そういうのって、わかる人にはわかる。

 私は、結果なんて考えず、眼の前のやるべきことを一つ一つ、目一杯やるだけやってほしい、と思ってます。