セサミ色々日記

雑談に変更

制約されざる人間1:星野道夫、シーナ・アイエンガー

パソコンを入れ替えるにあたり、かつてのブログを閉じようと思っています。

そこで、しばらくは以前の動画の引越しが続きます。

 

2012年2月20日

僕とアラスカの関わりは、15年ほど前(※今から42年前)、18歳の頃に遡ります。(中略)そのころはアラスカの資料を日本で手に入れるのはとてもむずかしく、アメリカから何冊か本や資料を手に入れました。その中にとても好きな写真集があって、毎日毎日飽きるまで見ていたのですが、そのたびにどうしても見ないと気がすまないページがあった。北極海に浮かぶ小さな島にあるエスキモーの村の空撮写真で、ものすごくきれいだったんです。(中略)
 写真の説明書きをよく読むと、村の名前が英語で書いてあって、シシュマレフという村でした。地図を広げ、その村がアラスカのどこにあるのかを探しだすと、余計にその村に行きたいという気持ちが募ってきたんです。
 ところがどうやって行ったらいいのか分からない。知り合いもいない。でも思いは日々募っていく。
 それでとにかく手紙を書いてみようと思ったのです。ところが住所も分からなければ、誰に宛てればいいのかも分からない。(中略)それでアラスカの村7か所に「Mayor(※市長、村長という意味)」宛で投函したのです。手紙の中身は「あなたの村を訪ねたいと思っているのですが、誰も知りません。仕事は何でもしますので、どこかの家においてもらえないでしょうか」という内容をつたない英語で書きました。(中略)半年経ったある日、大学から家に帰ると一通の国際郵便が届いていたんです。
 それがシシュマレフという村に住むエスキモーの家族からの返事でした。「世話をしてあげるから今度来なさい」という簡単な内容のものだったけれど、僕はもう嬉しくてたまらなかった。(中略)それで翌年の夏にアラスカに行きました。
星野道夫氏の講演より】


 オリバー・サックスという人物がいます。神経学者であり、医者であり、作家(医学エッセイ?)でもあり、『レナードの朝』という映画の主人公としても知られています。
 先日、小学4年の生徒さんに、彼の著書『妻を帽子とまちがえた男』という本の一部を読んでもらいました。きちんと理解して読んでいたようです。驚きました。アマゾンの書評では、医学部生などが紹介をしているような本です。賢い高校生や、とっても賢い中学生なら読めるでしょうが、さすがに小学生は無理かなぁと思っていたのですが、いや、決めつけてはいけませんね。

 かつて予備校の講師をしていた時に、私が『妻を帽子とまちがえた男』についてちょっと紹介をしたら、授業後に一人の生徒さんがやってきて、「私はその人の『火星の人類学者』という本を読んだことがあります。とっても面白かったので、先生も是非読んでみてください。」と言ってくれました。

 オリバー・サックスの著書は、どれも、深淵で心揺さぶられる内容なのですが、中でも『火星の人類学者』が群を抜いて深潭に思われます。本当はこの本を小学生の生徒さんに読んでもらっても良かったのですが、1章の分量が多いため、また、この本を読むと、あまりの感銘の大きさに、私は冷静にしていられる自信がなかったため、避けてしまいました。興味のある方は手にとってみてください。この本を教えてくれた元生徒さんに感謝です。

 ちょうど同じ頃、動物行動学の話をしていたら、別の生徒さんが、「アラスカの動物の写真とかエッセイとかを書いている星野道夫という人の本がおもしろいですよ。」と言ってくれました。私はそれまで、星野道夫氏については名前だけ見たことはあったのですが、本を読んだことはなかったので、早速買って読んでみました。確か『森と氷河と鯨』という本だったと思います。

 星野道夫氏はアラスカの動物や風景などの写真家で、アラスカに関する著書も出しています。

 彼は、高校の頃、『ナショナル・ジオグラフィック』(1888年に発刊された月刊誌で、自然、科学、地理、歴史などを扱ったもの。世界で900万部以上販売)に載っていたアラスカのシシュマレフという村の写真に一目惚れしてしまい、それがきっかけでアラスカと関わるようになります。
 その発端が、上述の文章ですが、でも相当無茶ですよね。ネットもメールも携帯電話も存在していなかった42年前に、日本人の18歳の青年がいきなり、「アメリカ合衆国アラスカ州シシュマレフ村 村長様」という宛名で「なんでもやりますから、そちらに泊めてください」なんて手紙を出してしまうんですから。それで泊めてくれるほうもすごいですよね。結局彼は、3ヶ月間、アラスカで過ごしたそうです。

 星野氏は大学卒業後、田中光常氏という写真家の助手として2年間働いた後、アラスカ大学野生動物学部に入って勉強しようと考えます。ところが試験に不合格になったのですが、その時取った行動がまた相当無茶なんです。

 入学に必要な英語の試験を受けたら点数が30点足りなくて、不合格の通知が来たのです。でも僕はアラスカに行くことを決めていた。本当にやりたいと強く思うことはときとして勇気を生むようで、点数が足りなかったにもかかわらず、僕はそのまま日本を出てアラスカに行ってしまいました。それで学部の教授に直談判して
「点数が足りないだけで一年浪人することはとても考えられない。僕はもうアラスカに来ることを決めている」と言うと、その教授は少し変わった人で、僕の話をまじめに聞いてくれて入学を許可してくれたんです。


 一応、星野氏の名誉のために補足説明をしますと、当時アラスカ大学には留学生のための準備講座といったものは全くなく、留学生にはアメリカの大学生と全く同等の英語力を要求していたらしく、英語の試験もかなりきついものだったそうです。また、入学後は本当に猛勉強したそうです。
 でもさ、600点満点で30点も足りなかったくせに、ごり押しで入学してしまうとはすごい! 皆さんも是非とも、この根性を見習いましょう! でもできたら、合格点を取って入学しましょう!(つづく)

【参考文献等】
星野道夫著『未来への地図』朝日出版社、2005
星野道夫著『森と氷河と鯨』世界文化社、1996
オリバー・サックス著、高見幸郎・金沢泰子訳『妻を帽子とまちがえた男』晶文社、1992
オリバー・サックス著、吉田利子訳『火星の人類学者』早川書房、1997


p.s.
地球温暖化の影響で、シシュマレフ村の浸食されており、数十年後には完全に水没してしまう可能性が極めて大きいそうです。

 

2012年2月22日

「ぼくはシーシュポスを山の麓にのこそう! ひとはいつも、繰返し繰返し、自分の重荷を見いだす。しかしシーシュポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さをひとに教える。かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。このとき以後もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛だともくだらぬとも思えない。この石の上の決勝のひとつひとつが、夜にみたされたこの山の鉱物質の輝きのひとつひとつが、それだけで、ひとつの世界をかたちづくる。頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに十分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。
アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』)
 

 アメリカの名門ハーバード大学で、最も人気のある授業が、マイケル・サンデル教授の「JUSTICE(正義)」だそうです。NHKの「白熱教室」という番組で紹介されて日本でも人気となり、本屋さんにいくと本やDVDがたくさん売られています(※私はテレビを観ないので、本屋さんで知ったのですが)。
 白熱教室の第2段としてスタンフォード大学のティナ・シーリグ教授の授業が、第3段としてコロンビア大学シーナ・アイエンガー教授の授業が紹介されたそうです。現在、日曜の午後6時から、NHKのEテレでアイエンガー教授の授業が再放送されているようです。興味のある人は、観てみてください。

 町田の久美堂書店のレジ近くに、シーナ・アイエンガー教授の『選択の科学』という本が山積みになっていたのを見て、面白そうだなぁと思って私はつい買ってしまいました。

 アイエンガー氏は、『選択』というテーマで約20年間研究を続けました。その成果を1冊の本にまとめたものが『選択の科学』です。『選択』という概念を原点に置き、様々な座標軸・多種多様な切り口から『選択』について考察がなされています。アイエンガー氏は自らの著書をこう紹介しています。

 「本書は心理学にしっかりとした軸足を置きながらも、経営学や経済学、生物学、哲学、文化研究、公共政策、医学などをはじめとする、さまざまな分野を参照している。そうすることで、できるだけ多くの視点を紹介し、人生における選択の役割と実践に関する通説に、見直しを迫ることができればと思っている。」

 この本では、以下の8つの章に絞って、選択が論じられています。
「・第1講:選択は本能である:選択は生物の本能である。なぜ満ち足りた環境にもかかわらず、動物園の動物の平均寿命は短いのか。なぜ、高ストレスのはずの社長の平均寿命は長いのか

 ・第2講:集団のためか、個人のためか:父は結婚式のその日まで、母の顔を知らなかった。親族と宗教によって決められた結婚は不幸か。宗教、国家、体制の違いで人々の選択のしかたはどう変わるか

 ・第3講:「強制」された選択:あなたは自分らしさを発揮して選んだつもりでも、実は、他者の選択に大きく影響されている。その他大勢からは離れ、かといって突飛ではない選択を、人は追う

 ・第4講:選択を左右するもの:人間は、衝動のために長期的な利益を犠牲にしてしまう。そうしないために、選択を左右する内的要因を知る必要がある。確認バイアス、フレーミング、関連性

 ・第5講:選択は創られる:ファッション業界は、色予測の専門家と契約をしている。が、専門家は予測ではなく、流行を創っているのでは? 人間の選択を左右する外的要因を考える

 ・第6講:豊富な選択肢は必ずしも利益にならない:私が行った実験の中でもっとも多く引用され、応用されている実験にジャムの実験がある。ジャムの種類が多いほど売り上げは増えると人々は考えたのだが

 ・第7講:選択の代償:わが子の延命措置を施すか否か。施せば、重い障害が一生残ることになる可能性が高い。その選択を自分でした場合と医者に委ねた場合との比較調査から考える

 ・最終講:選択と偶然と運命の三元連立方程式:岩を山頂に運び上げたとたんに転げおちるシジフォス。神の罰とされるその寓話で、しかしシジフォスの行為に本当に意味はないのだろうか。人生もまた・・・」


 どの章もとても興味深く、色々と考えさせられる内容になっています。何が一番面白く思えるかは、その人が何に関心を持っているかによって異なってくると思います。
 
 私の場合は、第1章に書かれたラットの実験の話が、一番印象に残りました。
 かなり残酷なのですが、ある生物学者が、ラット(※実験用のネズミ)を1匹ずつ、水で満たしたガラスびんの中に入れて、溺れるまで泳ぎ続けさせると、どれくらい泳ぎ続けることができるか、という実験です。
 水温は一定に保ち、体力的にも同じくらいのラット数十匹を用いて実験を行ったそうです。ラットが泳ぐのをやめてただプカプカと浮いて休息しようとした場合には、即座に水を噴射し、泳ぎ続けるしかない状況に置いたそうです。
 その結果、15分間ほど泳いであっさりと諦めて溺れ死んでしまうラットと、体力の限界まで平均60時間泳ぎ続けてから溺れ死んだラットのどちらかにはっきりと分かれたそうです。驚いたことに、中間は存在しなかったそうなのです。
 諦めるラットはたったの15分で諦めてしまうのに対し、頑張るラットは60時間も頑張り続ける、この時間差に、私は愕然とするほど驚きました。限界まで挑むものの力強さを、ラットに教えてもらえた気がします。

 この実験には続きがあって、ラットをすぐにガラスびんにはいれず、何度か捕まえてその度に逃がす、ということをした後に、ガラスびんの中で溺れるまで泳がせるという実験をした場合、全てのラットが、諦めることなく、力尽きて溺れ死ぬまで、平均60時間以上も泳ぎ続けたのだそうです。

 逃げ出した経験のあるラット、つまり、自分の力で運命を創りだしていった経験のあるラットは、決してあきらめずに最後まで粘って頑張り続けることができるのです。そんなラットって、超格好いい!って思ってしまいました。私もラットを見習わなければ・・・。


 ところで、話は変わりますが、そもそもなぜ、アイエンガー氏は『選択』というテーマを選んだのだと思いますか?

 彼女も私も誰も、自分の人生を、運命によって決められているものだとして諦念して受け入れることもできます。予測不能の偶然に翻弄されるものだとして、流れに身を任せていくこともできます。数多くの制約や不条理があるとしても、それでも自分の人生は、自分で選択して切り開いていくものだと考えて、ラットのように頑張って泳ぎ続けることもできます。

 「わたしの両親は、1971年にインドからカナダ経由でアメリカに移住してきた。新天地で新しい人生を踏み出そうとした二人は、多くの先人たちのように、アメリカンドリームをつかもうとした。夢を追い求めるには苦難の道が続くことを、二人はほどなくして知ったが、けっしてあきらめなかった。わたしは、この夢の中で生まれたのだ。両親よりもアメリカでの生活に慣れていたわたしは、アメリカンドリームの何たるかを、二人よりずっとよくわかっていた。特にその中心にある、光り輝くもの、とてつもなく明るいために、目が見えなくとも見えるものに気がついた。
 それが、「選ぶ」ということだった。(中略)
 わたしは自分の人生を、すでに定められたもの、両親の意向に沿ったものとして考えることもできた。また自分の失明と父の死に折り合いをつける一つの方法として、それを自分の意思を超えた、思いがけないできごとの重なりと見なすこともできた。しかし、自分の人生を「選択」という次元で、つまり自分に可能なこと、実現できることという次元でとらえた方が、はるかに明るい展望が開けるように思われたのだ。」

(つづく)

【参考文系】
シーナ・アイエンガー著、櫻井祐子訳『選択の科学』2010、文藝春秋
アルベール・カミュ著、清水徹訳『シーシュポスの神話』1969、新潮文庫

p.s.
 先の実験では、ラットは15分泳ごうが60時間泳ごうが、どちらにせよ最後には溺れ死ぬしかなかったのだから、頑張るだけ損ではないか、という考え方もできるかもしれません。
 人間だって同じ。望みの薄いことにチャレンジして、すっごく頑張って努力して、労力を目一杯消費して、最後には結果が出せないのなら、全く意味がない。結果がついてこないのなら、そんなことやるだけ無駄。それよりも、要領の良い方法で裏技を使って結果を出す人間の方が利口だ、それができないのならば、最初から努力なんてせず、簡単に自分のできる範囲で満足した方がスマートだ、といった考え方もできるかもしれません。

 しかし、結果って何なんだろう?って私は考えてしまうんです。

 もちろん、結果は出せた方がいい。それまでの努力がくっきりとした形で証明されるのだから、結果を出した方がいい。
 でもね、もしも、もしも、目標に直結した結果がたとえ出せなかったとしても、その人が努力をしたという結果は残る。努力をしたという結果は、その人のその先の行動に、大きく影響してくると思うんです、もちろん良い意味で。人生という長いスパンで考えると、ちゃんと結果が残せていると思うんです。

 人は直接的な結果で判断されるものだ、と言われるかもしれません。
 でもね、目標に直結した結果が出せたにせよ出せなかったにせよ、どちらにせよ、努力をした人には、独特の雰囲気、特有の美しさが醸し出されるんです。そういうのって、わかる人にはわかる。

 私は、結果なんて考えず、眼の前のやるべきことを一つ一つ、目一杯やるだけやってほしい、と思ってます。