セサミ色々日記

雑談に変更

アマルティア・セン:3

⑤2012年1月27日:考える自由②

センの続きです。前回、人々は人間を、包括的で単一の区分で分類したがる傾向があるということについて書きました。なぜ、そのような傾向があるのか、それは、人々には、何らかの集団に帰属し、アイデンティティの共有意識を持ちたいからです。そのこと自体には多くの利点があるのですが、ともすると、そのような帰属意識は、集団間の対立意識を激しくし、通常だったら考えられないような暴力的な行動を引き起こす可能性を大いに秘めていると、センは論じます。

【2】帰属意識と排他性
帰属意識の利点
・同一性(アイデンティティ)の共有意識は、単に誇りや喜びの源となるだけでなく、力や自信の源にもなる。
アイデンティティ意識は、ほかの人びと、つまり隣人や同じ地区の住民、同胞、同じ宗教の信者などとの関係を強め、温めるうえで重要な役割を果たす。特定のアイデンティティに関心を向けることによって、われわれは連帯感を高め、お互いに助け合い、自己中心的な営みを超えた活動をするようになる。


帰属意識がもたらす排他性
アイデンティティ意識は、人びとを温かく迎える一方で、別の多くの人びとを拒絶しうるものであることも、あわせて認識しなければならない。住民が本能的に一致団結して、お互いのためにすばらしい活動ができるよく融和したコミュニティが、よそから移り住んできた移民の家の窓には嫌がらせのために煉瓦を投げ込むコミュニティにも同時になりうるのだ。排他性がもたらす災難は、包括性がもたらす恵みとつねに裏腹なのである。
・人にはえてして好戦的となる、唯一のアイデンティティがあると考え、それがなにやら多大な(時にはひどく不快な)要求を本人に突き付けるのは仕方がないという意識が培われた場合には、暴力が助長される。唯一のアイデンティティとされるものを押しつけることは、しばしば党派的な対立をあおる「好戦的な技」の重要部分を占めるのである。


アイデンティティのすり替えと、暴力の醸成
・単一基準のアイデンティティという幻想は、そのような対立を画策する者の暴力的な目的に見合うものであり、迫害や殺戮を指揮する者によって巧みに醸成され、助長されるものだ。対立目的に利用できる単一のアイデンティティという幻想をかきたてることが、暴力をあおることを専門にする人びとを惹きつけるのはおどろくべきことではないし、そのような還元主義が求められている事実にも、なんら不思議はない。
・暴力的な目的のために単一のアイデンティティを主張する際には、一つのアイデンティティ集団――目下の暴力関係と直接結びついている集団――を選び出してとくに焦点を絞るかたちををる。そこから特定のものを強調し鼓舞することで、その他の関係や帰属の重要性を失わせる方向へと進む(「そんなよその問題についてよく語ることができるね? 同胞が殺され、女性たちはレイプされているというのに?」)

・人びとが自覚するアイデンティティをすり替える作戦は、世界各地で残虐行為を引き起こし、それによって旧来の友人が新たな的になり、浅ましい党派主義者がにわかに強力な政治指導者に変身してきた。

・あいにく、そうした暴力をなくそうとする多くの善意の試みもまた、われわれのアイデンティティには選択の余地がないという思い込みに縛られており、それが暴力を根絶する力を大いに弱めることになる。異なる人々のあいだで両行的な関係を築こうとする試みがおもに、(人間がお互いにかかわりあうその他無数の方法には目もくれず)「文明の友好」とか「宗教間の対話」、あるいは「さまざまな共同体間の友好関係」という観点から見られれば(現にその傾向は強くなっている)、平和を模索する以前に、人間が矮小化されることになる。


 では、上記のような状況を食い止めるための解決策を、センは提唱しています。それは次回。

 

⑥2012年2月11日:考える自由③

私たちの時代は歴史の中ではじめて、ちがった国の人々の間の、友好的で理解あるつき合いができるようになった時代であることを考えてみて下さい。前には諸国民はお互いに相手のことを知らずに生活してきました。そして、実際、お互いに憎み合ったり、恐れ合ったりしたのでした。同胞的理解の精神がみんなの間で、ますます基礎を固めてゆくことを望みます。
 このことを思い浮かべながらひとりの年老いた人間である私が、君たち日本の生徒諸君に遠くから挨拶します。
 そして君たちの世代が、いつか私たちの世代を恥ずかしいものにするだろうことを期待しています。
アインシュタインが日本の学校児童に送った手紙より in 『本の中の世界』)


 やっとセンの最終回に入りました。長引いてしまい、すみませんでした。
 前回は、単一集団への帰属意識が排他性をもたらしやすく、党派間の対立や暴力に悪用される危険性があるという内容でしたが、それを防ぐための方策として、センは、複数のアイデンティティの選択を提唱しています。

【3】複数のアイデンティティの選択
①好戦的・残虐的な排他性への対抗策
アイデンティティにもとづく考えが、これほど残虐な目的に悪用されうるのであれば、解決策をどこに見いだせばよいのだろうか?(中略)好戦的なアイデンティティの勢力には、相反する複数のアイデンティティの力で対抗できると考えなければならないだろう。
  ↓
相反する複数のアイデンティティとは、
・日常生活のなかでわれわれは、自分がさまざまな集団の一員だと考えている。そのすべてに所属しているのだ。国籍、居住地、出身地、性別、階級、政治信条、職業、雇用状況、食習慣、好きなスポーツ、好きな音楽、社会活動などを通じて、われわれは多様な集団に属している。こうした集合体のすべてに人は同時に所属しており、それぞれが特定のアイデンティティをその人に付与している。どの集団をとりあげても、その人の唯一のアイデンティティ、また唯一の帰属集団として扱うことはできない。
  ↓
 具体的には、センに関する第1回目(11月11日、ああそんなにも前だったのか!)の冒頭に書いた文章が、そうです。
・一人の人間がなんら矛盾することなく、アメリカ国民であり、カリブ海域出身で、アフリカ系の祖先をもち、キリスト教徒で、リベラル主義者の女性であって、かつヴェジタリアン、長距離ランナー、歴史家、学校の教師、小説家、フェミニスト異性愛者、同性愛者の権利の理解者、芝居好き、環境活動家、テニス愛好家、ジャズ・ミュージシャンであり、さらに大宇宙に知的生命が存在して(できれば英語で)交信する必要があるという考えの信奉者となりうるのである。
  ↓
 例えば、日本とA国が戦争しそうな状況になり、A国への敵対心を煽るようなプロパガンダがなされたとします。その場合でも、マラソン大会でA国の選手と知合いになっていたら、あるいはA国の環境活動団体と交流があったとしたら、あるいはA国のジャズ・ミュージシャンが大好きだとしたら、単純にA国を憎むことなどできなくなると思うのです。複数の帰属集団を持ち、縦横斜め複雑な網目状の交流を形成することにより、国家間・民族間・宗教間の単純な対立を回避できる可能性が生まれるのです。
  ↓
 しかし、時と場合によっては、複数の帰属集団のうち、どれを優先すべきか決定しなければなりません。そのような場合には、論理的思考により、自ら優先順位を決定すべきであるとセンは説きます。


②論理的思考による選択
 様々な局面で、人がどのように行動すべきかは、生まれついた単一の集団によって決められるのではなく、個々人が、自らの責任において、論理的・理性的に考え、自ら決断して選んでいくべきであると、センは訴えます。

・人生を送るうえで根幹となるのは、自分で選択し、論理的に考える責任なのである。
・われわれに必要なものはなににも増して、自らの優先事項を決めるうえで享受できる自由の重要性を、明晰な頭で理解することなのだ。

  ↓
・たとえば、私の亡妻エヴァの父エウジェニオ・コロルニは、1930年代のムッソリーニによるファシズム体制下のイタリアで、イタリア人であることと、哲学者であり、大学教授、民主主義者、社会主義者であることによる異なった要求を比較しなければならず、哲学を研究する道をあきらめて、イタリアのレジスタンスに加わった(彼はローマにアメリカ軍が到着する二日前に、ファシストに殺された)。
・「祖国を裏切るか、友を裏切るかを選ばなければならないとしたら、祖国を裏切る勇気が自分にあることを願う」(E.M.フォースター

  ↓
 日本人に生まれついたのだから、この民族に生まれついたのだから、この宗教に属しているのだから、運命に従うしかないのだ、仕方がないのだ、といった考え方をセンは徹底的に批判し、人は自らの行動を考える自由と責任を負うべきであると説きます。
 そのような考えの根底には、人生は運命で決められているのではなく、自ら切り開いていくものなのだ、というセンの信念があるように思います。
・おそらく最大の障害は、複数のアイデンティティを認めることから生まれる論理的思考と選択の役割を無視し、否定することにあるのだろう。単一基準のアイデンティティという幻想は、われわれが実際に暮らす社会を特徴づける多種多様な世界よりも、はるかに不和を生むものになる。選択の余地のない単一性による誤った説明は、われわれの社会的、政治的な論理のおよぶ範囲と力に甚大な被害をおよぼすものだ。運命という幻想は、驚くほど重い代償を課すのである。
    ↓
そして、最後に、このように締めくくっています。

・本書のテーマでもある人間の矮小化に抵抗することによって、われわれは苦難の過去の記録を乗り越え、困難な現在の不安を抑えられる世界の可能性を開くこともできるのである。血を流しながら横たわるカデル・ミアの頭を膝に抱えながら、11歳だった私にできることはあまりなかった。だが、私は別の世界を、手の届かないものではない世界(※下線及川)を思い浮かべる。カデル・ミアと私がともに、お互いがもつ多くの共通したアイデンティティを確かめられる世界を(かたくなに対立する人びとがその入口で叫んでいても)。


【参考文献】
アマルティア・セン著、大門毅・東郷えりか訳『アイデンティティと暴力:運命は幻想である』勁草書房、2011
湯川秀樹著『本の中の世界』みすず書房、2005


p.s.
 センが上記のような考えに至った経緯として、監訳者は次のように書いています。
「イギリスからの独立まもない1940年代、センがベンガルの実家で幼少時代を過ごしていたころ、イスラムヒンドゥーの無益な争いを目の当たりにする。あるとき、一人のイスラム教徒カデル・ミアが、自宅の庭で血まみれになっているのを目撃する。結局、カデルはイスラム教徒であるがゆえに、たいした手当を受けることなく、死んでいく。セン少年は、この事件に深く心を痛め、疑問を抱き、こうした対立を克服するためにはどうしたらよいか、そこから自問自答をはじめる。その後の長年にわたる研究や思考の結果、行き着いたひとつの答えが「アイデンティティを選択する」自由である。これは社会の現実の矛盾、また矛盾ゆえに生ずる人と人、国と国との争いを目の当たりにした、セン自身の悲痛な訴えとも思える。(中略)
 人々の可能性は無限であり、そのなかから理性的な選択をすることにより、制約条件はあるものの、必ずや「暴力の非制度化」が可能であるという思いが込められている。」

p.p.s
 冒頭に書いたアインシュタインの文章も、センの主張も、理想論にすぎない、きれいごとにすぎない、現実はそんなもんじゃない、生ぬるい、といった批判がなされるかもしれません。確かに、そうかもしれない。完璧な平和、完璧な友好なんて存在できるわけない。
 しかし、現実を少しでも良い方向へ持っていきたいとの願いから、いや、そうできるとの信念から、理想を掲げるのは、生ぬるいことなのでしょうか。
 非現実的な理想論など意味がないという考えは、「政治を軽蔑するものは、軽蔑すべき政治しか持つことができない」というトーマス・マンの言葉が意味する内容と同様に、最初から試合放棄していることに繋がらないでしょうか。
 いい年齢にもなって、理想論に感動してしまう私は、愚かなのかもしれない。自分の考えすらおぼつかなく、行動も全然伴ってなく、自らを情けないと思いながらも、センの考えを読むと、いいなぁ、こうなりたいなぁ、こうできたらいいなぁ、と思ってしまう私は、愚かなのかもしれない。
 それが愚かなら、私は愚かに生きていきたいと思う。