セサミ色々日記

雑談に変更

アマルティア・セン:1

アマルティア・センに関しては、センター試験で出されてから、高校生には知られるようになりましたが、下記のブログを書いた当時は、高校では全く教えられていなかったと思います。

高校で教わる内容とはポイントが異なるかもしれませんが、私なりのセンの解釈を記したブログです。長いので2回に分けて載せます。

 

①2011年11月11日:魚も鳥も、植物だ!

一人の人間がなんら矛盾することなく、アメリカ国民であり、カリブ海域出身で、アフリカ系の祖先をもち、キリスト教徒で、リベラル主義者の女性であって、かつヴェジタリアン、長距離ランナー、歴史家、学校の教師、小説家、フェミニスト異性愛者、同性愛者の権利の理解者、芝居好き、環境活動家、テニス愛好家、ジャズ・ミュージシャンであり、さらに大宇宙に知的生命が存在して(できれば英語で)交信する必要があるという考えの信奉者となりうるのである。
アマルティア・センアイデンティティと暴力』
 

 以前、インド人の友人のファニちゃんが日本に暮らしていたとき、彼女の両親が来日することになりました。私は1日、鎌倉観光のガイドをしたのですが、その時に最も困ったことは、食事でした。
 彼女のお母さんがヴェジタリアンで、卵以外は植物しか食べないからです。もちろん、動物性の調味料もダメで、いちいち厳しいチェックが入り、私があげたパイナップル・キャンディーに、魚のダシは使われていないかと、真顔で聞いてくるし。
 そういえば、酢豚にはパイナップルが入っている、とファニちゃんが余計なことを言い出すし(※なぜ食べもしないのにそんなこと知っているの?!)。酢豚は中華料理だと答えたら、豚肉好きの中国人が豚肉とパイナップルを組み合わせるのだから、魚好きの日本人がパイナップルを魚を組み合わせてもいいのではないかとか言い出すし。いくら日本人でも、そんな不味そうな組み合わせは食べない!と頑張って力説したら、恐る恐る口に入れて、そしたら、美味しい!って喜んでるし。
 精進料理でもいいかな、と思ったのですが、私の知っているインド人は全員、濃ーい味付けだ大好きで、十中八九、味がない!と言われるだろうし。結局、お好み焼とか食べてもらい(神妙な表情をしてた)、その後、七里ヶ浜にある『Bills』というセレブ好きのお店にいき、クレープとアイスを食べてご機嫌になってもらえて、良かったのでありました。ふー。

 インド人にはヴェジタリアンが多いのですが、一口にヴェジタリアンといっても色々です。私の知合いでは、植物と牛乳・バターはOKだけど、卵はダメという人が多いです(卵は生命の元だからです)。ジャイナ教徒の人々は、厳格なヴェジタリアンで、卵はもちろんのこと、玉葱、ニンニク、生姜などの根菜類も食べません。それらを食べると、生命の元を断ってしまうことになるからだそうです。
 ファニちゃんのお母さんに言わせると、卵は動かないから生命体となってはいないので、食べてもOKだそうです。
 コルカタ(旧カルカッタ)出身の知合いは、魚を食べるのが大好きなヴェジタリアンだそうです。それってヴェジタリアンじゃないよ、って言ったら、コルカタでは魚が多くとれるからいいのだ、ときっぱりと断言されました。
 ファニちゃんは、豚肉と牛肉はダメだけど、鳥肉はOKのヴェジタリアンだそうです。鳥肉を食べる人はヴェジタリアンとは言えないのではないか、と聞いたら、そんなこと言ったら外国で暮らせないでしょ!と怒られました。はい、すみません、私が悪かったです。魚も鳥も、植物の仲間です。私の柔軟性が欠けていました。懐の浅い人間で、すみません。もっと多元的で広い眼を持たねばならない・・・ううう。(つづく)

 

②2011年11月17日:センについて

先週、アマルティア・セン著『アイデンティティと暴力』という本を読みました。この本について書く前に、著者のアマルティア・センについて紹介させてください。
 センの講演論文をまとめた『貧困の克服』という本の巻末に、訳者の大石りら氏がセンの経歴について、重要な点は漏らさずに、コンパクトに分かりやすくまとめてくれています。そこで、大石氏の文章からの抜粋(*)センの他の著書からの抜粋(**)+私の解説(※)、という形で書かせてください。今回はちょっと、堅苦しい内容ばかりですが、どうかご了承ください。

 (*)アジア人の経済学者として、初のノーベル経済学賞受賞の栄誉に浴したアマルティア・センは、1933年、インド東部のベンガルで生まれました。(中略)
 センがちょうど9歳になった頃の1943年にベンガル大飢饉が起こりました。それによって餓死した人々は、二百万人を越すといわれています。幼いセンは、学校の校庭に迷い込んできた、飢えのために錯乱状態に陥って苦しむ人々を目撃して、大変なショックを受けました。この消し去りがたい記憶が、どうしてインドは貧しいのかという幼い頃から抱きつづけてきた疑問と結びついて、センはのちに経済学者となる決心をしたそうです。


 ※センはコルカタ大学とケンブリッジ大学で経済学と哲学を学んだ後、コルカタ大学、デリー大学、MIT、オクスフォード大学ハーバード大学などの大学の教授となり、1997年から2004年まではケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの学寮長となり、その後再びハーバード大学教授となります。
 1998年には、経済の分配・公正と貧困・飢餓の研究における貢献によりノーベル経済学賞を受賞します。また、2001年からは、緒方貞子前国連難民高等弁務官と共に「人間の安全保障委員会」の議長も務めました。

 (*)センの研究分野は驚異的な広がりを持っています。それは、厚生経済学開発経済学、社会選択理論、貧困理論、所得分配理論、公共政策論、そして政治哲学、道徳哲学、経済倫理学、開発(発展)倫理学法哲学、人権理論にわたっていますが、それらは内的連関によってそれぞれ見事に結び付けられており、しっかりと基礎付けられています。

 ※センの提唱した概念には様々なものがありますが、その内、ここでは、①「合理的な愚か者」、②「潜在能力(capability)」、③「エージェンシー(agency)」の3つを紹介していきます。

①「合理的な愚か者」
 ※従来の経済学では、人々は、他人のことなど考慮せず、自分の利益が一番大きくなることを目的として行動する、という考えが前提となっていました。しかし、
(*)センはこの精神的に貧しい利己的な人間像と――彼はこれを「合理的な愚か者」と呼んでいます――その行動の“動機”に批判を加えています。(中略)人間のとる行動の動機の構造をその倫理的動機も含めて、もっと広く捉えなおす必要があると彼は主張しています。
 彼がこの「合理的な愚か者」のかわりに提案したのは、(中略)人は自己の権利を主張する前に、まず他人にどのような権利が与えられているかを考えなくてはならないというものです。人々の行動は(中略)利己的な動機に支えられているのではなく、「倫理的な思考や道徳的な価値観に動機付けられている」ということも意味しています。
 他人の権利が侵害されていることを知ったうえで、それによって自己の置かれている状況には何ら利益はもたらさないことだけれども――また、たとえそれが不利益をもたらすことがあっても――その他人の権利の侵害をやめさせるために何らかの行動に出る決心をすること、センはこれをコミットメントと呼んでいます。(順序逆転)
 それによって、経済学が温かい心を再び取り戻すことが可能となり、社会問題や政治問題に経済倫理の視点から取り組むことが可能となるのです。



②「潜在能力(capabilitiy)」
(**1)個人の福祉は、その人の生活の質、いわば「生活の良さ」として見ることができる。生活とは、相互に関連した「機能」の集合からなっていると見なすことができる。(中略)重要な機能は、「適切な栄養を得ているか」「健康状態にあるか」「避けられる病気にかかっていないか」「早死にしていないか」などといった基本的なものから、「幸福であるか」「自尊心を持っているか」「社会生活に参加しているか」などといった複雑なものまで多岐にわたる。(中略)
 機能の概念と密接に関連しているのが、「潜在能力」である。これは、人が行うことのできる様々な機能の組合せを表している。従って、潜在能力は「様々なタイプの生活を送る」という個人の自由を反映した機能のベクトルの集合として表すことができる。


 ※この言葉を端的に説明するのは、なかなか難しいのですが、私が抱いているニュアンスとしては、衣食住が足りて、教育や医療を受けられて、参政権があり、安定した雇用・治安が確保され、自分が持っている能力を活用して仕事やその他の社会生活に参加できて、誇りを持ってハッピーに生活できることで、その他具体的に何が必要かは自分で色々とチョイスしていくもので、例えば、子供を何人育てたいとか、犬を飼いたいとか、休日はボランティア活動を行いたいとか、スポーツをしたり音楽を演奏したり絵を描いたりして楽しみたいとか、60歳過ぎても働きたいとか、それらの事柄を自分の能力と状況と意志に基づいて自由に組合せ、皆それぞれ異なる人生だけれども、皆それぞれ(金持ちとかそういうことではなくて)気持的に豊かな生活が送れるような状態、って感じです。

 「人が自らの価値を認める生き方をすることができる自由」(**2)のことを、センは「潜在能力(capabilitiy)」と表現しているのです。そして、貧困とは、「たんに所得の低さというよりも、基本的な潜在能力が奪われた状態とみなければならない」(**2)としています。
 現在の日本では、食料が入手できないほどの経済的貧困状態は見られませんが、学校に通っても学級崩壊しているとか、スクールカーストが存在するとか、KYと言われたくなくて自分の思う意見が言えないとか、自分が希望する進路を選べないとか、単一的な価値観でしか物事を判断できないとか、そういった状況は、私は、「潜在能力」が欠如した貧しい環境だなぁと思います。


③エージェンシー(agenncy)
(※センのいうエージェンシーとは)(**2)「主体的、能動的に行動する力、そうした行為」のことである。センはこれをきわめて重視する。「人々が勇気と自由をもって世界に直面する」ことが大切だからである。

(*)もし私たちの「潜在能力」の向上をサポートしてくれる制度が社会に存在しないのであるならば、そのための新しい制度が創られるように、政治的、市民的権利を行使して、主体的に行動すべきなのです。(中略)“発展”そのものにとって重要な役割を演じるのは、エージェンシー、すなわち人間の主体的行為です。


【参考文献】
(*)アマルティア・セン著、大石りら訳『貧困の克服――アジア発展の鍵は何か』集英社新書、2008(第19版)
 この本は、センがシンガポール、ニューヨーク、インドのニューデリー、そして日本で行なった講演をまとめたものです。読みやすくてセンの入門書としては最適です。これ以外の本は、ちょっと、難しいです。

(**1)アマルティア・セン著、池本・野上・佐藤訳『不平等の再検討――潜在能力と自由』岩波書店、2011(第19版)

(**2)アマルティア・セン著、石塚雅彦訳『自由と経済開発』日本経済新聞出版社、2007(第6版
)