セサミ色々日記

雑談に変更

君のためなら千回でも

いま、アップしている動画で、『自由からの逃走』について話そうと思っていました。そういえば、以前のブログで書いた気がして、調べてみたら書いていたので、ここに載せます。

この頃は、自分なりにいい文章を書いていたなぁと思います。現時点においては、このような文章が書けないかもしれない。この頃はセサミを開いて1年未満で、何もかもが必死で必死で、でも新鮮で新鮮で。

はじめて生徒さんが算数オリンピックの予選に通過したとき、うれしくて夜中に走って歩道橋の上で大泣きしてしまったことを覚えています。なつかしい。

ではでは

 

2011年10月27日

君のためなら千回でも:その1:自由からの逃走

よく適応しているという意味で正常な人間は、人間的価値についてはしばしば、神経症的な人間よりも、いっそう不健康であるばあいもありうるであろう。かれはよく適応しているとしても、それは期待されているような人間になんとかなろうとして、その代償にかれの自己を捨てているのである。(中略)
 自由からの逃避のメカニズムは、人間が個人的自我の独立を捨てて、その個人には欠けているような力を獲得するために、かれの外がわのなにものかと、あるいはなにごとかと、自分自身を融合させようとする傾向がある。現代においては良心の権威は、同調の道具としての、常識や世論という匿名の権威に交代した。われわれは古い明らさまな形の権威から自分を解放したので、新しい権威の餌食となっていることに気がつかない。われわれはみずから意志する個人であるというまぼろしのもとに生きる自動人形となっている。
[エーリッヒ・フロム著、日高六郎訳『自由からの逃走』東京創元社、1965(新版)]
 

 最近、由比ヶ浜から鵠沼海岸へ引っ越し、電車1本で通勤できるようになったので、かなり楽になりました。
 湘南の街の概して伸び伸びとしているのですが、鵠沼海岸の伸びやか度はすごいです。金髪でモヒカンのどうみても60歳過ぎている人が普通に溶け込んで歩いているし、真昼間から道端で長さ2メートル以上もある奇妙な楽器を演奏している人が、通りすがりの人と仲良く雑談しているし。日曜日の午前中に、うちから歩いて5分の海岸に行ったら、RCサクセションの音楽を大きくかけながらのどかな雰囲気でサーフィン大会をやっていて、そのそばではアウトドアでヨガをやっていて、そのそばではフリーマーケットをやっていて、そのそばでは日本酒愛好会の人たちが海岸でごきげんに日本酒を飲んでいて、その他犬の散歩やらジョギングやらビーチバレーやら単に寝転がっているやら、みんなそれぞれ自分の好きなことを自由にやっていて、なんかいいなぁって思います。

 自由というと、勝手気ままっていう印象がありますが、本当に自由を享受するためには、決断力と自律性と重い責任感とが伴うのであり、人は自由から逃れたがる側面もある、ということを教えてくれたのが、上記のエーリッヒ・フロムの著書でした。

 エーリッヒ・フロムという人物は、1900年にドイツに生まれ、社会学・心理学・精神分析学を研究し、フランクフルト大学で教えていたのですが、ナチスに追われ1934年にアメリカに亡命し、以後アメリカやメキシコの大学などで社会心理学を教えていた人です。権威主義的パーソナリティという概念を生み出した人物としてもよく知られています。その意味は、ウィキペディアには以下のように書かれています。

 硬直化した思考により強者や権威を無批判に受け入れ、少数派を憎む社会的性格(パーソナリティ)のことを指して権威主義的パーソナリティと言われる。
 1930年代のドイツにおける、ファシズム台頭を受入れた普通の人々や下層中産階級に関して、社会心理学的な分析を行なったフロムや、アメリカの社会学者たちによって、人間の社会的性格(パーソナリティ)として主張された。フロムはこれを権威ある者への絶対的服従と、自己より弱い者に対する攻撃的性格の共生とした。思考の柔軟性に欠けており、強い者や権威に従う、単純な思考が目立ち、自分の意見や関心が社会でも常識だと誤解して捉える傾向が強い。外国人や少数民族を攻撃する傾向もよくある。このような社会的性格を持つ人々がファシズムを受け入れたとした。


 1941年にフロムは、ナチズムやファシズムを信奉する人々の心理を分析した『自由からの逃走』という著書を発表しました。
 フロムの文章は独特です。かっちりとした論理的構造を基盤として、難解で複雑で深遠な内容を、少しでも読み手に伝わりやすいように、様々な角度から色々な表現や例を駆使し、文章を編み出していきます。しかし、『自由からの逃走』は戦時中に急いで書き上げられたため、フロムの他の著書と比較すると、若干荒っぽい仕上がりになっています。フロム自身も前書きでこう書いています。

 私はある概念や結論を、もっと広い視野にたって十分に説明してから引用したかったのであるが、じっさいにはそれはできないことがしばしばであった。他の重要な問題についても、通りすがりにとりあげるか、ときにはまったくふれることさえできなかった。しかし私は、心理学者は必要な完全生を犠牲にしても、現代の危機を理解するうえに役立つようなことがらを、すぐさま提供しなければならないと考えるのである。 

 しかし、『自由からの逃走』を読むと、その冷静で論理的な文章の下からは、「伝えたい」というフロムの想いが、ひしひしと滲み出てくるように感じられます。
 フロムの本の内容を、私ごときが、超かみくだいて数行にまとめてしまうことには、すごくためらいを感じるのですが、でも書きます。

 先にも書いたように、自由っていうと、気ままで奔放なイメージがありますが、フロムの言う自由はそれとは異なり、自分で考え、自分の意志で決定し、自律性に基づいて行動し、その結果について全て自分が負わなければならないという、重たい印象のものです。誰かの言いなりになって動いて、無責任でいる方が、気楽っていえば気楽ですよね。でも、下っ端でいることは嫌。だから、他人の権威をかさに、集団で、下を作りたがる。
 フロムの表現を借りるならば、「かれは権威をたたえ、それに服従しようとする。しかし同時にかれはみずから権威であろうと願い、他のものを服従させたいと願っている。」
 ドラえもんでいうならば、ジャイアンの権威をかさにのび太を虐めるスネ夫みたいなもんですかね。
(つづく)

 

2011年10月28日

君のためなら千回でも:その2:The Kite Runner

わたしたち父子は二人とも罪を犯し、裏切りを働いた。
けれどもババ(※父親の名前)は、良心の呵責から善を生み出すすべを見つけた。
わたしはなにをしただろう?
自分が裏切った人々に自分の罪をなすりつけておきながら、
それを忘れようとした以外に。
わたしはなにをしただろう?
不眠症になる以外に。
物事を正すために、いったいなにをしただろう?
[カーレド・ホッセイニ君のためなら千回でも』]


 確か2,3年ほどまえ、本屋さんで大阪府知事橋下徹氏の本を立ち読みしたことがあります。『どうして君は友だちがいないのか (14歳の世渡り術) 』というタイトルで、いじめられたら強い者の仲間入りをしろ、スネ夫になって生きのびろ、といったことが書いてありました。14歳の処世術としては上手い方法なのかもしれない、スマートな方法なのかもしれない。ある程度割り切って要領よく振舞わなければ、自分が餌食になってしまうかもしれない、だから、自分の身を守る方法としてはすごく良い方法なのかもしれない。でも私は、この本を読んでいて、なぜか、気持ち悪くなってしまいました。

 で、話は飛びますが、2週間ほど前、ブックオフをふらふらしていて、今まで読んだことのないタイプの本を探そう、と思い立ち、くるくると回っていたら、カーレド・ホッセイニというアフガニスタン出身でアメリカに亡命した人が書いた小説を見つけました。日本語タイトルは『君のためなら千回でも』となっていて、感動を煽ってるぽくて、そういうのってちょっとなぁー。原書のタイトルは“The Kite Runner(凧を追う人)”となっていて、今更凧上げに興味はないしなぁー、アフガニスタンのこともほとんど知らないし、別に興味がある訳でもないしなぁー。でも、せっかく手に取ったのだから、ま、いいか、買ってあげよう、といった超上から目線の何様モードで買って、読みました

 内容は、主人公のアフガニスタン人が、少年時代に友達を裏切り、その後アメリカに亡命して、大人になってからまたアフガニスタンに行って。だめだ、読み終えて1週間たった今でも、この本のことを考えると、感情の波がドワーンと押し寄せてきて、全く冷静になれません。どうしよう。訳者あとがきを引用させてください。

 物語は一九六〇年代の平和なアフガニスタンから一九七三年のクーデター、ソ連によるアフガニスタン侵攻、ムジャヒディンの台頭、タリバン時代、二〇〇一年のアメリカによる空爆まで、今日のアフガニスタンを背景にしながらも、愛、友情、絆、裏切り、秘密、贖罪といった普遍的文学テーマが、まるで精緻な機織り機によって織りこまれたかのように美しく描かれている。(中略)
 随所にアイロニーがちりばめられ、それらが緊迫感をともなってたがいに響きあいながら、時代や運命に翻弄される人々の姿をくっきりと鮮明に浮かびあがらせているのだ。それを綴る完結で端正な文章の底に流れているのは悲しみだが、その悲しみのなかには、希望を求めてやまない祈りが垣間見える。
 

 この小説の主人公は、弱さを抱えています。人間誰しも弱いものだから、当たり前。自分の周囲の大切な人を傷つけ裏切ります。それもごく普通の当たり前のこと。しかし、とあるきっかけで、自分の弱さに、自分の裏切りに、自分の卑劣さに向かい合い、弱々しくみっともなくふらつきながらも、何とか良く生きよう精一杯模索していきます。これも当たり前と書きたい。
 物語の内容自体は重たく悲しいものですが、自らの弱さに必死に向かい合おうとする人々のひたむきさを、作者は、優しい眼差しで、簡素ではあるけれど美しく煌めく文章で編み上げています。この爽やかな読後感は一体何なのだろう?

 訳者あとがきを見てみると、この本は、カーレド・ホッセイニのデビュー作で、世界52ヶ国で出版され、これまで(※2007年まで)に累計800万部を売り上げ、ニューヨークタイムズのベストセラーリストに120週以上連続でランクインし、いまだに勢いが衰えす、映画化もされたと書いてありました。
 彼の第2作の『千の輝く太陽』という本は、過酷な状況下を力強く生き抜くアフガニスタンの女性を主人公としたもので、アマゾンによると、「ニューヨーク・タイムズ」のベストセラーリスト第1位を記録し、2007年度にアメリカで最も売れた小説となったそうです。
 このような本が評価され多くの人々に愛されて読まれているという点において、アメリカという国が、すごく羨ましく思いました。

カーレド・ホッセイニ著、佐藤耕士訳『君のためなら千回でも』ハヤカワepi文庫、2007年☆